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No.219 「断食」の悔い改め 2006.3.12

「断食」の悔い改め

 毎月第一月曜から3日間、断食をすることになっている。雑誌「ハーザー」の挟み込みにある「世界的花婿の断食」という運動に参加して、もう2年以上にもなっているかと思う。
 私は大体断食は苦にならないほうなので、いささか軽く考えて漫然とこの運動に加わった感がある。今回3月の断食も、そうして始まった。
 案外だったのは、今回の断食はきつかったのである。3日目は特にひどかった。一体に断食は3日目が辛いのが常識である。その後はだんだん楽になるし、楽しくなるとも言える。私は30歳代には40日断食をやったこともあるくらいで、いろいろ楽しいエピソードもある。しかし今回はどうも違う。
 3日目の夜、午後8時から12時まで今回の最後の断食に仕上げをしようと会堂にはいった。ところが苦しさが込み上げるようにやって来た。私はうーんとうめいた。旧約聖書ではしばしば断食を「身を苦しめる」ことと書いてあったのを思い出した。
 さらに主は「花婿が共におる時、断食はしない。花婿が奪い去られる日、断食をするだろう」とおっしゃった。他の個所で主は言われる。「しかし、このたぐいは祈りと断食によらなければ、追い出すことはできない」と。
 遂に、私は断末魔のような悲鳴をあげて叫んだ。これまでの漫然とした断食を悔い改めた。断食は祈りである。サタンを追い出す祈りである。この肉体的苦しみはサタン的だったと悟った。私は叫んだ、「サタンよ、さがれ」。そして笑った、「ワッハッハハ」。気分も肉体も一瞬に爽快に変わったのを自覚したものだ。《く》


信仰による義認

 てらうようで悪いけれども、私は牧師職としても、聖書の研究家としても、しろうとである。聖書翻訳については、特にそうだ。だから翻訳に、いろいろ口を挟むのはおこがましいと思うのだが。(聖書翻訳と言えば今月のハーザーの奥山先生の翻訳の記事は面白い、日本語の国語の勉強に非常にいいです)。
 とは言え、邦語訳聖書について、しろうとながら時おり気になることがある。たとえば、ローマ人への手紙3:22やガラテヤ2:16の「イエス・キリストを信じる信仰」というのはどうしても我慢できない。講壇でよく、「みなさん、ここは『イエス・キリストの信仰』と書き直してください」などと言ってしまう。現行の聖書の翻訳のご威光を傷つけるようなことを言うのは良くないと思うのだが、つい言ってしまう。
 新改訳に対して申し訳ないのだが、私の教会では口語訳を使っている。それはローマ人への手紙第3章から第5章にかけて頻出するある訳語に理由がある。新改訳では「義と認める」という訳で統一されている言葉だ。聖書を開いて調べてみると、口語訳では「義と認める」という訳語と、「義とする」という訳語に区別されている。
 その個所を原典のギリシャ語を見ると、やはり歴然と分かれている。もっとも、私の見る限り2か所だけだが、口語訳でも「義と認める」と補訳している所があるが。本来は「義とする」は一語なのです。「義と認める」と言う時、「義」という言葉に「認める」という動詞がかかっているのです。
 問題はこうだろうと思う。口語訳でも2か所だけ「義とする」という一語を「義と認める」と訳したのは、文脈上それが良いと判断したからであろう。だから、考えなおせば新改訳の翻訳委員の方々は、ローマ人への手紙のこの辺りは、文脈上すべてを「義と認める」と訳すほうが正しいと決めたのかと思うのである。そうでなければこんな翻訳はしないと思う。
 さて、「私たち罪人が義と認められるのはイエス様の信仰による」ことは、教理上クリスチャンなら誰も賛成する。ところで、「私たちはイエス様の信仰によってズバリ義人にされる」、こういう教理があるだろうか、問題だろうと思う。しかし、私はそれを信じたいので、この「義とする」を翻訳上生かしのである。
 ところで、次頁はリバイバル新聞に載せた私の書評です。「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか」という長い題の本ですが、内容はちょっと変わっています。
 著者の徐先生の説くところは、イエス様によって「義と認められた」人は、そのまま既に「神の義」を頂いているのだから、ひるむことはない、この地上の生活のあらゆる分野において、この神の義を有効に生かして大胆に生きよ、楽しく生きよ、とおっしゃっておられるように見える。「義と認めていただく」と言うべき個所を、そのまま「義とされる」という意味に転用しているように見える。そこから「驚くべき陽気さ」を生じるのであろう。
 徐先生がうっかり罪を犯したり、失敗したりした時、愛用する聖句は第一ヨハネ1:9の「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」という、この聖書のお約束を最大限に活用するわけである。すると、同じ第一ヨハネ3:9で使徒ヨハネが言っている大胆な言葉、「すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。………罪を犯すことができない」というような凄い心境になるのであろうか。
 私自身の信仰はと言えば、やや徐先生より後退します。書評の途中に書いてありますように私自身の信仰はあくまで、「罪と汚れの自己認識と、神様に義人として認められているという義認意識の緊張関係に生きている」のです。良書です。推薦します。《く》

リバイバル新聞2006年3月12日号に掲載
徐起源著「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」書評

 著者の徐起源先生はこう言っておられるようである。「信仰生活を送る上で神の義を知り、それを活用することは最も大切なことの一つである。今、多くのクリスチャンには、それが隠されてしまっているのではないだろうか」と。
 また、次のような方々にこの本を読んでほしいと言って、11ほどの項目を挙げておられる。その中から4つを選び出すと<1>苦しいクリスチャン生活をしている方<2>罪責感に捕らわれている方<3>祈りが天に届いていると感じない方<4>信仰生活にアップダウンのある方―――という具合だ。こうした人たちが、この本を学んだらきっと楽しいクリスチャン・ライフを過ごせるようになると信じていると、徐先生は言われる。
 本書の基本的な主張は信仰義認である。罪人が罪あるままに義人と認めていただく。それはイエス・キリストの十字架の血によるあがないの結果である。クロスビーの聖歌(404番)ではないが、「罪と汚れのあらばあるまま」に、自分を神が義人として認めて下さるという恵みの信仰である。
 この時、多くのクリスチャンにとって、自分の罪や汚れの自己認識は依然として残って消えないが、しかし同時に自分は義人として神に認めていただいているという深い確信がある。この2つの相反する確信の緊張関係の中で生きているということになる。難しく言えば弁証法的ということができる。
 しかし、徐先生はそんなややこしいことは言わない。神が自分を義人と認めて下さったのだから、自分は本当に義人なのだ、神は自分が全き義人であることを保証して下さるのだ、と言う。驚くべき陽気さがあると思う。
 とはいえ、「徐先生、あなたは決して罪を犯すことはないのですか。時には小さくても罪や失敗の一、二はやるでしょうに」、こう聞いたら著者は何と答えるだろうか。それを知りたければ、ぜひ本書をお読みいただきたい。先生の「驚くべき陽気さ」の秘訣が分かると思う。(キリストの福音大分教会 釘宮義人)

「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」~徐起源著 恵那レーマミニストリー 1365円

〔あとがき〕
◆徐先生の「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか」(販売用)は、礼拝室の後ろの棚に数冊置いてあります。無くなりました時は、クロスロードにてお求めください。
◆3月19日(日)、須佐二三子先生が礼拝にお見えになります。もっと詳しく聞きたい方、午後もお残りください。
◆3月28日(火)、神田英輔先生(日本国際飢餓対策機構総主事)ご来講。アジア、アフリカ、中南米など現地の飢餓の具体的状況や、その援助、教育実態等の方向、今後への展望等、拝聴。
◆国井キノ姉、脳梗塞で入院中、見舞うと多少の応答あり。リハビリのため近く転院の見通し。ご加祷ください。

〔牧師近況〕
紙面が余りましたので、牧師の私的なことを書きます。先日某姉より電話あり。やや長い電話でしたが、先方より言わく「先生、耳がよくなりましたね」には参りました。そして長い間、口に出して言わなかったけれど、私のトンチンカン返事に困っていたのだろうなと、申しわけなく思ったことです。教会でも私が勘違いして変な返事をしたり、時には機嫌を損じたり、また声をかけても気がつかなかったり、大変ご迷惑をかけていたのだろうと思います。今回、性能が衰えていた旧補聴器を捨てて新しい補聴器に替えました。なかなか調整に日数を食って困りましたが、最近どうにか正常になり、「先生、耳がよくなりましたね」と声をかけられるまでになっています。
 先日3月4日には宮崎福音キリスト教会の富高兄弟と高森牧師先生のご長女美和姉との結婚式があり、宮崎市に行って参りました。祝餐会で開会の祈りをさせて頂きました。さてその祝餐会の立食パーティ中、宮崎の救い主イエス・キリストの教会の高木和秀先生が最近、脳出血で倒れ、意識不明のさなかから奇蹟的に癒され、現在ピンピンしていますという希有なお証しに驚嘆と憧憬で胸一杯になりました。私は妻やキノ姉を抱えているだけに、二三子先生のお証しもあり、さらにと祈りの思いを熱くしました。諸兄姉のご祷援をお願いしつつ。《く》
by hioka-wahaha | 2006-03-12 00:00 | 日岡だより
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