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No.218 二・二六事件から70年 2006.3.5

二・二六事件から70年

 先週の2月26日の週報や「日岡だより」に二・二六事件の事を書かなかったのは珍しいことであった。逆に今年の商業新聞では私の見る限り2紙に二・二六事件関連の記事が出たので、なんとなく気分が落ち着いた。もう一つは先週、「ホリエモン捜査は国策的意図だ」という佐藤優さんの新聞囲み記事をコピーで出したのだが、その佐藤さんの文中にも二・二六事件のことが出てくるので、それも格別書かなくてもいいやと思った原因だった。
 この日、新聞で気がついたのは、今回のトリノの冬季オリンピックがかつてのベルリン・オリンピックから70年目だということでした。特にフィギユアで少女選手、稲田悦子さんの名が出たのは私には懐かしかった。ヒットラーが「あの子はなんだ」といぶかったという話もある。ベルリン・オリンピックはドイツの国威発揚になったということで日本政府にも影響を与えたと思う。
 あの年がまた、当二・二六事件の年であったのです。東北は飢饉で幼い娘たちの身売りなどあった頃、皇道派の陸軍青年将校たちが、貧しい農民を思い、天皇の大御心を察してということから、党派政治と財閥の結託を憤っての決起が二・二六事件だったと言える。この事件を、佐藤優さんが「彼らが国家のことを一所懸命考え、命をかけて解決しようとしたのだが」、と残念そうに書いている。戦後のマスコミはこういう風な書き方をしなかった。
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 この事件を昭和天皇は激怒されて、「わが股肱(ここう)の老臣を殺戮す、かくの如き兇暴の将校等、これは反乱である」と決めつけ、彼らを逆徒と呼んだ。天皇を慕って、天皇親政を願っての決起だった、これらの将校らこそ憐れである。2月26日の5か月後には軍事裁判がなされ、7月12日には死刑執行が行われる。ここにも国策的意図がみられないであろうか。
 陸軍内部にも、皇道派の将校たちは他に残っていただろうが、もうこれを声にする人は居なかった。新しい流れに巻きこまれてしまう。日本人の侘しい習性である。
 日本の多くの国民は、「死刑になった将校たちは本当は真の愛国者であった、あの人たちは正しい。しかし、今の日本の国策上仕方がない。もっと要領のよいやり方はなかったのかなあ」、と考えていたものだ。だから国民の中には、「政府筋も要領がよい、これらの反乱将校たちは適当に満州の野に放ったらしい」、とまことしやかに言う人もあったくらいである。《く》


祈りの実技

 「祈りの実技」などと書くと、まじめな先生がたを立腹させるかもしれないと心配しつつ、これを書き始めています。
 私は決して祈りの達人ではありません。祈ったら、いきなり1億円が送られてきて、教会堂が建ったとか、瀕死の癌患者のために祈ったら一夜にして完癒したとか、リバイバル集会のために祈ったら、台風の吹く中で3千人集まったとか、そういう実績は私にはありません。
 しかし、一般の信徒の中で、なんとしても実りある祈祷生活を営みたいと考えている方々のために、少しでも役立つことをお伝えしたい。それも、「御言を信じて祈れ」とか、「清い心で祈れ」とか、「熱心になって祈れ」とか、そういう心や魂の持ち方という面はさしおいて、もっとプラクティカル(実技的)に語ってみたい。誰でも効果のある祈りを求めているでしょう。もちろん、具体的な求めから、心情的な、霊的なものに至るまで、はっきりした効果ある祈りをしたい。そういう人は多いはずだ。
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 もう50年ほど昔のことだが、キリスト新聞社から「祈りは聞かれる」という薄い本だが出たことがある。その中に、なんと私の小さな証しが載っている。それは「父帰る」という題だったか、菊地寛の小説の題と同じだが、実際に家出をしていた父親が、私がその娘さんの願いに答えて祈ってあげたら、その祈りが答えられて父親が家に帰ってきたという実話である。
 実はその数日前にキリスト新聞が来た。その中で同新聞の武藤富男社長が、「アメリカのクリスチャンたちの信仰体験談を読んだ。実際的で信仰が生きている。祈ったら、こういうふうに生活が変えられたとか、こんな奇蹟があったなどという証し集だ。うらやましい。日本でもこんな証しはないのか、読者のみなさん、みなさんの中でそうした証し、実話があるならどんどん投稿してほしい。日本にもこういう証しがあるぞという本を出したい」という記事があったのである。
 私はそれから2、3日たったかと思うが、主日の礼拝に出て、その新聞記事を会衆の前で読んだ、そして「みなさん、このキリスト新聞の社長さんの呼びかけに答えましょう。武藤さんが求めているような奇蹟を呼び起こす祈りをしましょう」と訴えたのである。
 その日曜日の午後であったか、翌日であったか、その礼拝に出席していたIさんが、自分が下宿している家の娘さんを連れてきた。そして、「家の主人であるお父さんが何か家庭内のもめごとがあって、家出をした」というのである。そして、その娘さん言わく、「父は今、どの辺にいるでしょうか」。
 なるほど、世の拝み屋さんなど、家出している方角を占ったりするそうだ、そのことだな、と思ったが、私は言った。「さあ、お父さんがどの方角にいるか、私には分かりませんが、とにかくお父さんが家に帰ってくれば良いでしょ」。「はい」、というわけで、その娘さんの手を取って祈って上げた。
 しかし、当時はまだカリスマティックな伝道をなさる方は無かった時代。私はしかし、オズボーン先生の本のおかげで神癒伝道は行っていて、割合に大胆にやっていたと思う。だから、Iさんが私の説教に心を動かされ、その午後、下宿に帰ってみたら、親父さんが家出をしたと言って騒いでいる。これこそ奇蹟が起こっていい事件ではないかというので取るものもとりあえず、その娘さんを連れて私のところへ来たという訳だ。
 翌日だった、その娘さんが涙を流して報告にきた。「父が帰りました。ちょうど先生が祈って下さったあの時刻に、父は小倉の駅に寝ていたが、急に『家に帰ろう』と思って、そのまま家に却ってきたのです」と言う。
 私は驚嘆したが、また少々あっけなくて気が抜けた感じもした。私は、「証し」にするほどの事件だとは思わなかったが、新聞の記事を読んで、その説教を聞いたその日にIさんが動き、さっそく「父帰る」の奇蹟が起こったことのタイミングの面白さに心が動いた。この愉快な報告を武藤社長にすることが嬉しかったのである。だから原稿用紙ではなく、便箋に手紙として送ったのだった。ところが、それを武藤さんは投稿扱いにして、ついに本の中に収めてしまったというわけである。私としては、ともかく本というものに原稿が載る最初の経験になったのであった。
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 こういう経験があったので、私は「効果ある祈りの秘訣」などという言葉を打ち出したとしても、それほどインチキくさいとは言われまいし、遠慮も不用だと思うのだが、それにしても正直に言うと、ジョージ・ミューラーとか、ああいう方々に伍して「祈りの達人」めいた顔をして、文章を書くような心臓は無い。
 しかし、その程度の私でも、なんとか一般の信徒のみなさんがすぐにでも実行できそうな、祈りの工夫をお伝えすることは出来ると思うのである。(この工夫という言葉は賀川先生がよく使ったように思う。信仰生活も実際面において具体的に工夫するといろいろ味のある方法が発見出来るものである)。
 たとえば、祈りについて簡単なことを書きます。胃の悪い人のために祈るとします。この場合、ただ言葉で「この方の胃の痛みを取り去ってください」と祈るのもよいことです。また「この方に胃の痛みをもたらす霊よ、主の御名によって命ず、今、出て行け」と悪魔(悪霊)を責めるのもよいことです。
 こうした祈りをささげるにあたって、「主よ、御心ならば、この病を癒したまえ」などとは決して祈らないことです。エリシャのように死ぬべき病にかかることもあり得ますが、しかし、まず如何なる病気も主は癒したもうと信ずべきです。イエス様は「病を癒すことは私の意志だ」(マタイ8:3の原文)とおっしゃっています。私たちはどんな病をも癒し給う全能の主を信じて祈るのです。
 前文に戻りますが、たとえば胃のためでしたら、あなたは自然に病気の方の胃のあたりに手を置くことでしょう。それは良いことです。「病人に手をおけば癒される」とマルコ16:18にありますもの。その際、あなたの注意が、あなた自身の手に行くと思います。もちろん病人の胃のあたりにも何か変化が起きないかと、心は動くものです。それは自然なことだと承知の上、更に次のことを聞いてください。
 あなたのその手の、その指先にあなたの注意を向けてください。もしかしたら、その指先から聖霊の力が出て行くかもしれません。イエス様が長血の女性をお癒しになった時、「私から力が出て行くのを感じた」(ルカ8:46)と言われたとあります。だからもっと、自分で心を励まして「癒しの主の力が私の手を通し、指を通して出てゆく」と意識し、また指先に注意を集中する。こうして、癒しのご奉仕の時、「精神を集中する」ことをつとめる、これが大事なのです。いや、これが「祈りのコツ」です。
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 かつて、私の尊敬する某先生に、「祈りの秘訣はなんでしょうか」と聞いたことがあります。すると、打って返すように「それは君、精神集中だよ」と返事されて一驚したことがあります。もっと信仰的な、敬虔な言葉を聞くと思っていたからであります。
 よく「熱心に祈った」とか「切に祈った」とかいう言葉を聞きますが、とかく、その時、髪を振り乱して半狂乱の態で祈っている様子を想像します。しかし、もっと落ち着いた瞑想タイプの祈りの場合などでは、「熱心」とか「切に」とかいう言葉も、それは「精神集中」のことだと説明したほうが、より実践的であると言えます。
 祈りの場合、しばしば洋の東西を問わず合掌の形を取るのは、精神集中の時、肉体のどこかに意識を置くと良いからですが、特に手の指先は言葉と意識の神経を集中させるのに良い個所である、と言う人は多くいます。
 又、視線をどこかに送る、または目を閉じる、そうしたことも精神集中の補助姿勢として意味があります。私はよく、「空中の一点に目を止めて」などと指導することがありますが、またやや離れた人の胸のあたりに目を止め、息を鋭く吐いて、その息を目に見えない矢のように、その人の胸に飛び込ませる瞬間、その人の心に大回転が起こすことがあります。この祈りは日本の神道系の「息吹の祈り」によく似ています。こういう風に実技的なものは他の宗教系統にも似たものを発見できます。しかし、ただ一つ、
 主イエス様だけは私たちのもの、私たちが聖霊さまを離れては、本物にぶっつからない。祈りの主目的はイエス様と聖霊様に出会うことにある。このことだけは忘れてはいけません、これをしっかり胸に収めておきましょう。《く》
by hioka-wahaha | 2006-03-05 00:00 | 日岡だより
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