No.213 日本人クリスチャンの品格 2006.1.29

日本人クリスチャンの品格

 昨年11月に出版された藤原正彦さんの「国家の品格」という本、私は東京に出た時、浜松町の店に山積みされているので買った。「これはベストセラーになるな」と思ったが案の定だった。
 拡大宣教学院に行って、マグニファイの高森編集長に見せたら、さっそく「この品格というテーマで2月号に書いてください」という。OKして大分に帰ったのだが、下手な文章の上、長文になってしまった。高森編集長に申し訳ない。しかし、ご返事に言わく、「これ、上下に分けて2か月連載にします」と。
 ともあれ、この連載の(下)になるだろうと思うのだが、私は日本人らしいクリスチャンの、その代表的人物として、内村鑑三、新渡戸稲造、賀川豊彦と3人のお名前をあげた。実はこの3人の方々のほかにまだまだあげたいお名前はいくつもある。救世軍の山室軍平や、「余の尊敬する人物」の矢内原忠雄、「不如帰」の徳富蘆花、鉱害問題で天皇直訴の田中正三、など。
 しかし、私はその前に、庶民出のクリスチャン本間俊平をあげたい。本間俊平先生は小学校しか出ていないと思う。卒業と共に、大工の手伝いに出された。先生は材木の切れ端を燃やす焚火のそばで、板きれに燃え差しの木切れで字を書いて覚えたという。後年、先生の墨蹟は多くの人の垂涎のもとであった。
 先生は山口県秋吉台の大理石掘り出しの事業を営んだが、刑務所を出て来た人たちを迎え入れて、その世話も信仰指導もした。逸話は山ほどある。彼の熱烈信仰と正直無比の商売の仕方は、実業の日本社(?)から出版されて、当時のベストセラーになった。
 府中の刑務所に行って講演した時、壇上にあがって囚人たちの前に立った瞬間、先生は思わず嗚咽した。「諸君、申し訳ない。諸君がここに居るのは、皆このわたし本間俊平が至らなかったからだ」と言ったという。聞く人によれば「思い上がりも甚だしい」と言うだろうが、彼にしてみれば本気なのだ。大分の高等商業学校で講演したとき、壇上で興奮のあまりでんぐり返りをしながらしゃべったというほどだ。感激屋だ。彼の人生、感激の一生!
 玉川学園を作った小原国芳は学生時代から秋吉の大理石工場の集会に毎週出席。後に玉川学園を作ろうとするとき、「先生、どこが良いでしょう」。「ここだな」と今の町田市に指を置いた。「先生、そこは鉄道が来ていません。」「なあに、君が良い学校を作れば、鉄道がそこにくるよ」、そして地図の上にグイと線を引いた。それが今の小田急線である。《く》

 
欝(うつ)から抜け出すには 

 本紙の先週号〔あとがき〕に、標題の「欝(うつ)から抜け出すには」のことを書きました。まことに失敗作だと思って、正直に私の感想を書きました。同じ心の病気でも「統合失調症」のことを知って「欝のことなんか、大した事じゃないよ」と実感したせいもある。でも、欝は欝でご当人には大変なのです。やはり欝についての私の意見も無駄ではないと思いなおして、同冊子より抜粋して以下に転載します。《く》
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 欝病という病気がある。人によっては欝病は病気ではないと言う。とにかく、医者にかかっても治りにくい病気である。
 最近、欝病の人が多くなった。気分が重い。いらいらする。何をしようにも、する気が起こらない。何も始められない。ただじっとしているだけで、怠惰な自分を情けなく思うだけだが、それ以上、何も出来ない。そういう人たちが増えてきた感じがする。
 石の中の孫悟空でないが、何やら暗く重い空気の中に閉じ込められたみたいである。「いずれ出口が来ますよ」と、医師は言ってくれるが、「いつになったら、この暗い気分が晴れるのか、見当がつかない」。不安で一杯なのである。
 どうしたら、この不安から解放されるか、エネルギーを全く喪失した感じである。人から「大丈夫だよ」と励まされると、かえってますます無力感に襲われる。そう言って励ましてくれる人がうとましい。
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 私は医者ではありません。又、カウンセリングの専門家でもありません。それでも少しづつ分かってきたことは、人間は言葉を持っている存在だということです。これは、他の動物と大いに異なった特徴です。言葉が人間の自意識を作っているのです。
 私は若い時、聾学校の教員をしていました。「耳の聞こえない子どもに、なぜむりやり言葉を教えるのですか?」。この疑問に先輩の教頭先生が教えてくれました。「言葉が無ければ人間らしい思想を持つことが出来ません。正に人間失格になるのですよ。」私はびっくりしたものです。そんなことは考えた事もありませんでした。
 聖書にもあります、「初めに言葉があった。この言葉は神と共にあった。この言葉は神であった」(ヨハネ1:1)。「この言葉が肉体となり、私たちの中に宿った」(ヨハネ1:14)。
 これはイエス様のことですけれども、私たち「人間そのものの意識や存在の不思議さ」を考えるときの良い参考になります。
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 聖書に従って、人間の存在様式を図式化すると、<1>中心に霊、<2>そのまわりに精神あるいは心、魂。<3>その又、周辺に感覚、肉体、この3つの同心円になります。
日本語では霊と魂はほぼ同じもので、霊魂といっしょにしますが、聖書でははっきり区別します。
 <1>の霊は自分自身であって自分で自分が判らないのです。しかし、自分自身、自分がここに居ることは分かりきっています、不思議に思いません。私たちは自分の顔や、特に自分の目を直接見ることは出来なくて、鏡に写して間接的に見るだけです。同様に自分の霊を自分で自覚できるのは、<2>の精神、つまり心、または魂です。これが鏡の役目をしているのです。箴言27:19で「水にうつせば顔と顔が応じるように、人の心はその人をうつす」というのがそれです。
 <3>の感覚と肉体は、ごく幼児期に自分でこれが自分だと自覚させる場所です。椅子に腰掛けてお尻に自分の重みを感じる。そこに自分の存在を自覚する、そういう初期感覚が幼い時のアイデンティティです。
 こうして自分で自分を見る、この自覚能力の過敏症が一方では自己嫌悪症を作り、一方では自惚れや誇大妄想を作ると言えます。
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 自分で自分を見る力、これを私は意識の二重構造と呼びます。これは実は非常に大事な能力です。私はこれを20年ほど前に発見しました。聖書に「わが魂よ、主をほめよ」というような、これに類した言葉が詩篇に何度か出てきます。この言葉を見て、「私が私の魂に命令している」ことに気づいたのです。
 そのことから、私は自分が気落ちした時に「我が魂よ、明るくなれ」と自分の魂に命令することを体得したのです。それは偶然というか、ともかくその必要があって思わず試みたのでした。
 その時、私はあることで気分が全く落ちこんでいました。そこで、自分の魂に単純に命令しました。「私の魂よ、明るくなれ」。
 ここからが大切なのですが、私はこう言葉を言い放して、そのことを忘れていました。5分ほどして、何でもないことに、腹を抱えて笑っている自分を発見しました。その時だけの特殊なことだったでしょうが、私は大発見をしたのです。いつの間にか私は暗い心から明るい心に変わっていたのです。この5分ほど無為に待っているのが、後日、私の「得意技」になりました。
 言葉の力です。催眠術でも言葉を使いますが、言葉は人の心に暗示を与えます。暗示は人の心に変化を与え、その心の変化は人の肉体にすら変化をあたえます。だから信仰による癒しなどを催眠術で解釈できるとして、分かった顔をしている人もいます。私は言います。「催眠術だとしてもいいじゃない?」。
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 言葉には力があります。聖書は言います。「御言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21下)と。神の言葉には神の力があり、人の言葉には人の力があり、悪魔の言葉には悪魔の力があるのです。同じ人の言葉でも、悪い言葉には悪い力があり、善い言葉には善い力があるのです。
 そのことを同じくヤコブの手紙の第3章2節から10節までを読むと、舌と口は如何にも人間の御しにくいものだ。しかし、馬を扱うには口にくつわをはめ、大きな船も小さなかじ一つで運転できる。同じように人の舌や口は小さなものだが、人間を善にも悪にもあやつる道具になり得る、ということです。
 今、あなたが「悲しい。不安だ。私の人生は暗い」と思えて仕方がない時、あなたは自分に向かってこう言いなさい、「あなたは神さまに愛されている。神さまはあなたを高価で尊い存在だと言われる。あなたには必ず嬉しくてたまらない時が来ます。あなたの人生は安心です。あなたの人生は真昼のように明るくなる」と。大きな声で言いなさい、一語、一語、区切って言うとよい。何度も、何度も叫ぶように言いなさい。百回も、千回も、一万回でも、言いなさい。あなたは明るくなります。
 人の幸福を見て、「ああ、私は情けない。」と自分を責める。こうした思い、行き過ぎた自責の念は、サタンがあなたをだます言葉であることが多い。サタンは人の目に見えない存在ですが、そうした思いが私たちの心に影を落とす時、それはサタンの影だと悟りなさい。
 イエス様だってサタンの言葉を心に聞きました。サタンがあなたの心の泉に悪い思いのしずくを落とす時、そのしずくがあなたの心の表面に広がって、あなたの心全体に影を作り、あなたは自分を許せなくなる。特にすでにイエス様の血によって許されたクリスチャンであれば、あるほど、純粋な反省心で、そう思って苦しみやすいのです。
 あなたは自分にこう言いなさい、「いいえ、私は大丈夫、私はすでにイエス様によって神の子とされている。たとえ、悪い思いを一時持ったとしても、私はその過ちを主に告白します。神様は私を許してくれますし。私を二度と同じ悪意を抱かないように清めて下さいます」。
 また、次の言葉を繰り返して口にはっきり言ってください。
 「悪魔よ、私はお前にだまされない。私はイエス様の血によって、かねてのアダムの罪は消されている。また先ほど犯した私の心の罪、口と舌の罪も、一切を許してくださる。それらは、一切無かったかのように認めてくださる。今後、同じ悪や罪を犯さないように神様は私の心を守って清めてくださるのだ」。これらの宣言はヨハネの第一の手紙1章9節が根拠です、この1章9節をなんども口にして声を出して読んで下さい。あなたは許され、清められます。
 欝の状態にある時、大切なことは「あなたが既にイエス様によって救われていること」を自覚し、そのことを断固として告白することです。19世紀、ドイツの田舎牧師ブルーム・ハルトは、教区内の狂いわめく娘ゴッド・リービンに困惑しました。ブルーム・ハルトは娘に「キリストは勝利者」と叫ばせました。そしてついには可笑しいことに、悪霊も「キリストは勝利者」と叫んで出て行ったそうです。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-29 00:00 | 日岡だより
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