No.211 シラしんけん、ワッハッハ 2006.1.15

シラしんけん、ワッハッハ

 先日、本屋さんに本を買いに行った。途中、赤信号があって、待ち時間がえらい長い。
 でも私は平気。車の中で「ワッハッハ」と笑う。
 交差点、待ち時間はどんなに長くても一分は越えまいと思うが、待っている身には5分にも10分にも感じる。
 でも私は平気。車の中で「ワッハッハ、ワッハッハ」と続けて笑う。真剣に笑う。こういう場合、大分弁では「シラしんけん」と言う。
 シラしんけんに笑っていると、浜田京子さんではないが、息が上がってしまいそう。
 「え? 浜田京子さんってだれ?」
 「オリンピックに出た女子レスリングのさあ…」
 「ああ、そうか。でも、息が上がるって何?」
 「斎藤隆さんの『五輪の身体』って本に書いてあるがね。『息上げすると無心になる』って。これ彼女の親父さんの言うことらしい」
 「親父さんってだれだ?」
 「何も知らないんだねえ。例のアニマル浜口さ」
 「ああ、あの笑いの……」
 「そうさ、だから笑って息上げだ」
 ともあれ、私はシラしんけん笑いました。
 私は案外、欝(ウツ)になりやすいタイプ。少年時時代にはドモリや神経症(体内時計過敏症)で苦しみました。その後遺症が少し残っています。実はその日も、少々欝状態でした。
 だからこそシラしんけん体を振りしぼって声を限りに笑ったのです。とたんに欝(ウツ)が無くなって、ケロリとして、本屋さんに向かいました。《く》


我らを「友」と呼びたもうイエス様

 先日、1月12日の朝、早天祈祷での聖書日課は旧約レビ記19章と新約マタイ20章だった。
 レビ記はそれまで毎日レビ記特有の細かい祭儀規定の連続で飽いてしまう始末だった。この19章に来てホッとする。レビ記全27章の中でも、もっとも優しさに満ちた個所ではなかろうか。
 たとえば、「落ち穂拾い」、これはミレーの絵で有名な題材。ミレーの絵では農民のうるわしい労働姿である。
 しかし、このレビ記では違う。旧約聖書のルツ記に出てくる光景を思い出してほしい。そこでは、貧しい民が、金持ちの畑に行って刈入れの作業の労働者のあとにくっついて、遠慮しいしい残された落ち穂を拾っている姿である。これはレビ記によるユダヤの伝統である。
 ぶどうの刈入れでも、小麦の刈入れでも、木になる果実の収穫でも、取り残したものはないかと振り返ってはならない。それらはすべて残して置き、貧しい人々ために残しておきなさい、というのである。
 他にはこんな規定もある。日雇い労働者のための給金はその日に払え、翌朝まで遅らせてはならない、と。女房が夫の日給の金を持って帰るのを待ちわびている貧民の姿を思いやる心がなければ気が付かない規定である。
 何よりも、「心に憎しみを抱いてはいけない」などと、心の中の思いにまで及ぶ規定など、旧約では珍しいと思う。そこで、イエス様が引用された有名な言葉、「おのれのごとく隣人を愛せよ」という言葉も、このレビ記19章に出て来るのである。
           *
 さて、この日の早天の日課の新約では、マタイ20章。自分のぶどう園のために労働者を雇った主人の喩えをイエス様がなさっている。
 夜が明けるとすぐに雇った者に1日1デナリの労賃を約束してぶどう園に送った。次に9時、12時、3時と、相当な賃金を払うと約束してぶどう園に送った。最後には夕暮れの5時には、最後の男に賃金の話はきめないまま、「ともかくぶどう園に行きなさい」と言って農園に送った。
 夕方になると、主人は最後に来た男に、1デナリ。それから順々に初めに来た男にまで賃金を支払った。ところで、最初に雇われた男は自分には多少とも色をつけて金をくれるかと思ったらしい、ところが、やはり1デナリであった。男は不平を言った。
「最後に来て1時間しか働かなかったものにも1デナリ、1日中、暑さに耐えて辛抱して働いた自分にもたった1デナリ、これは不公平です」
 と言うわけ。主人は言う。
「友よ、私は不正をしていない、私は約束どおり君に賃金を払った。私は自分のものを自分のしたいようにしただけだ。私はこの後の者にも君と同じ賃金を払ってやりたいのだよ。それとも何かね。私があの連中に気前よくしているので、ねたましく思って居るのかね。」
 「この後の者にも」という言葉は後にラスキンの有名な論文になる。ラスキンの思想は資本主義の欠陥を突いて、次代の社会主義的時代に先行する。
 マルクスもこのラスキンと同時代であった。マルクスは唯物論・無神論思想で資本主義社会を批判した。一時はマルクスのほうが現実的で、ラスキンの考えは空想的に見えた、しかしどちらが本当に現実を見ていたか。興味のある相違点である。
 しかし、本当に人間の本質を見抜き、全き現実主義をもって人間の社会を革命するのはイエスの言葉だけである。
 以上のイエス様の喩えの中で、主人は言う。この不平ったらしい扱いにくい男に向かって、主人はこう語りかける。
 「友よ、……」
           *
 イエス様の「友よ」という言葉は、懐かしい言葉である。「私はあなたがたを友と呼んだ」、これはヨハネ15章の「まことのぶどうの木」の章で語られている。この言葉の寸前にイエス様は「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない」とおっしゃっておられる。
 イエス様こそ、人類を友と呼んで死んでくださった方ではなかったか。イスカリオテのユダがゲッセマネの園に暴徒たちを導いて「私の口付けするその人がイエスだ」とイエス様を売ろうとする。そのユダの裏切りを先刻ご承知のイエス様は彼の接吻を受けながら、「友よ、なんのためにきたのか」と答えておられる。
 ユダをさえ「友よ」と呼ばれたイエス様の愛を思う時、私たちの心は震える。なんという愛! 先週の本紙に書いたが、今は大変な時代。どれほど悲憤慷慨しても間に合わない、親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの少女を殺す。また、偽装建築もさることながら、天下の学者が世界の学会を惑わす偽装論文を書く。しかし、こうした彼らの悔い改めをじっと待っておられるのもイエス様である。《く》 

〔あとがき〕
第1頁で、欝(ウツ)のことにふれましたが、こうした心の病気の方は専門のカウンセラーか、精神科の医師にご相談ください。しかし、また自分でやってみようと思われるかたは、私の流儀にならって「ワッハッハハ」と笑ってください。かならず、効果はあると思います。もう1つはコトバです。自分の口や心を使って「私は明るくなる」と叫び、言い聞かせてください。この辺のコツは私の「だれでもできる『精神強化法』」に書いておきました。▼ただし、心の病気と言っても、いわゆる「分裂症」などと言われる症状の場合は、聖書的に言えば「悪霊の仕業」である場合が多いようです。私は随分若い時に、悪霊現象にぶっつかり、どうにかこうにか悪霊を追い出した経験があります。その頃はまだ「悪霊追い出し」などは異教の呪術屋さんのすることで、まともな牧師のすることではありませんでした。多分、当時、私は他教会の先生がたからは陰で非難されていたと思います。▼現在ではもう「悪霊追い出し」は一応キリスト教界でも受け入れられてきました。しかし、信仰を持っていれば大丈夫とは言っても、慣れない方には危険であります。信頼できる教職者に相談してください。なお奥山実先生の「悪霊を追い出せ」(マルコーシュ・パブリケーション刊)は信頼できる好著です。ご参考に読んでおかれるのは良いことだと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-15 00:00 | 日岡だより
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