No.810 《聖書のことば》主の食卓/聖句暗記のおすすめ(16) 2017.7.23

《聖書のことば》聖書暗記コースB~10
主の食卓

キリストを受け入れる「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」
(ヨハネの黙示録三・20)
 
 「神の国で食事をする人は、さいわいです」と人は事もなげに言う。しかし実際に神の国の盛大な晩餐に招かれると、人はだれも来ないのです。(ルカ一四・一五以下参照)
 そこで主は言われる。「私のほうから出かけて行こう。友よ、戸をあけて下さい。それだけでよい。そして、わたしはあなたの部屋に入り、あなたの貧しい食卓を祝して、盛大ににぎわし、そして共に食事しよう」と。
(1980.8.31週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(16)

 ヨシュア記一・八の「思い」、詩篇一・二「思う」を新改訳聖書では「口ずさむ」と訳し、なお詩一・二では「思い巡らす」と別訳を注に入れている。これが聖書でいう瞑想であり静思である。
 東洋風の無の瞑想について。これに近いことを西洋のキリスト教神秘家たちも説いている。しかし、すべてのクリスチャンに必須のこととは言わない。
 神秘主義は重要であるが危険である。サタンの誘惑の多い道であり、しかも信仰の最初と成長のためにぜひ必要というものではない。
 最初の回心は、通常どう考えても、いわゆるエクスタシー下でもベーター脳波でもない時におこっているように思われる(かといって普通一般の心理下でもないかもしれない。心理神経学?としては研究のいる所であろう)。
 ところで信仰の成長のためには、ぜひとも御言の瞑想が望ましい。はっきり、そうと自覚しなくても信仰の成長途上にある人は、みな自動的にしていることである。そして瞑想するためには人は必然的に御言を暗記しなければならぬ。暗記していない御言を瞑想することは、およそ不可能であるから。
 (1980.8.31週報「キリストの福音」より)





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by hioka-wahaha | 2017-07-31 23:00 | 日岡だより
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