No.210 新年おめでとうございます 2006.1.8

新年おめでとうございます

 「大変な時代だ」と言う声をよく聞きます
        しかし、人間の作る世界は
              いつも大変でした
 旧約聖書によると、ノアの時代も
   「暴虐が世に満ちていた」とあります
       悪人は、いつの世にもいました
 非行少年もいました
     盗みも姦淫も町に満ちていました
       どこの家庭にも問題はありました
 最悪の時代に比べれば
       今はまあまあ、よい時代です
 悲観せずにイエス様の宣言を聞きましょう
    「幸いなるかな、心の貧しき者!
           天国はその人のものなり」
    「心の貧しき者」という言葉には
         それなりの解釈がありますが
 世の「心の貧しい人(*)」にも
            イエス様は宣言します
   「あなたにも幸福が待っています、
       世界一の幸福が待っていますよ」と
 ですから、「新年おめでとうございます、
    今年も、あなたに幸福が待っているのです
    から」と言えるのです

 さて、よく「今時の若い者は……」という言葉を聞きます。エジプトの昔のパピルスにも同様の言葉が残っているそうです。しかし、こういう悪い時代を造ったのは古い世代の私たちです。その私たちの残した悪習の中に今の若い人たちは育ってきたのです。
(*)ここで使った「心の貧しい人」というのは聖書的な意味(マタイ5:3)ではないのです。いわゆる日本流の、卑しい浅ましい狭い了見の心の人をさしています。《く》
 

「聖霊の油注ぎ」についての一考

 実は「一考」というより、私の経験からくる「一つの理解」なのですが、こうした見方もあるものか、と読んでください。
 聖霊の働きについて、私のこれまでの考え方がありました。聖書から見て、こういう見方もあると思っていたし、かなりの確信を持っていたのです。
 それは、ある集会のあとで、ひとりの篤信のかたから「聖霊の油注ぎとはどんなことですか」と問われた時です。私は一瞬戸惑いながら、とっさにこう答えたものです(次頁上段途中まで)。
 第一の聖霊の働きは、まず「聖霊によって」という場合です。第一コリント12:3の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」という場合です。
 この場合、たとえ聖霊様の感動を感じなくて真実心をもって「イエス様を信じます」等の信仰の告白をしてバプテスマを受ける時、それは目に見えず、心に感じることは無くても、その信仰告白は聖霊様の導きによっているのですよと、パウロは言ってるように思えます。
 第二は「聖霊を受ける」という場合です。この言葉は使徒行伝8:15以下や、同19:2以下にペテロやパウロの言葉として出てきます。これは異言を伴う聖霊の受霊をさしています。
 第三は「聖霊に満たされる」です。これは第二の「聖霊を受ける」体験と同時に起こることもあります。(言い添えますと、第一の最初の信仰告白の時、すでに「聖霊を受け」、また「聖霊に満たされる」経験を受ける人も時には居ます。非常に恵まれた体験というべきでしょう。)
 第四は「聖霊に満たされ続ける」状態です。聖書では使徒行伝8:3、5、同11:24などで言及されていますが、7人の執事やステパノやバルナバのことです、これらの人々を「聖霊に満ちた人」と呼んでいます。つまり「聖霊に満たされ続けている」のです。一回だけ「聖霊に満たされた」のではなく、その後もずっと「聖霊に満たされ続けている」人です。このように類別できると私は思ったのです。
 第五ですが、実は次に私は「聖霊の油注ぎを受ける」体験を添えたのです。「油注ぎとは、聖書を見るかぎり、聖徒たちが主よりの特別の任務、奉仕を為すために選ばれた時、その仕事をするために特別に与えられる聖霊の智恵と能力である」というように答えたものです。
 その時、私は以上の言葉をとっさに答えることができたので、そのこと自体が私にたいする「聖霊の油注ぎ」のように思えたものです。
           *
 ところで最近、私は小さな体験をしました、小さなと言っても、私にとっては小さなことではありませんでした。
 昨秋、11月8日のことでした。私は祈りに行き詰まっていました。その時、神様の言葉がありました。「たとえ、泣いて嘆いて叫んで熱心に祈ることが出来なくても良いんだよ。喜んで笑って祈ったら、どうだ? 私に良いものを求める時、泣いて求めるのもよろしいが、喜んでニコニコ笑って求めるのも理にかなっていると思うが、どうだね。」
 私はその時、不思議に素直でした。早速、そのお言葉に従った。気軽に、喜んで微笑んで、主の聖霊の注ぎを求めたのです。
 その時、かすかですが、聖霊様の注ぎが全身の皮膚面に感じられました。あたかも、目に見えない薄絹の衣を身にまとったようでした。微妙な震動が全身を覆いました。聖霊様が私の全身を包んだように感じられたのです。
 それ以来、私は種々の私の行動にためらいが無くなり、自由さが生じました。日常茶飯事、一切の動作、振舞、行為を行う時、私を覆う聖霊様により守られて正しい行いを為すことが出来るというように感じました。
 「正しい行い」と言うのも律法的・道徳的な「正しい」という意味もありますが、それよりも「時宣に則した」という意味合いのほうが濃い、そういう実感がしたものです。
 私は驚嘆しました。そして、10日ほどたった時でした。早天祈祷の際でしたが、第一ペテロ1:15のお言葉が心を射たのです。「あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」
 このお言葉が、当時の私にとって「とうてい不可能な命令ではなく、当然なお諭し」のように思えたのです。これは正しく「クリスチャンの完全」の教えです。私にとって驚天動地です。こんなことを言ってよいものだろうか。世界のクリスチャンから非難攻撃されそうな気がしました。こんなことを言った先人は一人も居ないのにとも思いました。仏教でいう「増上慢」に陥ってはしまいか、不安でした。
 最近は幸いに(?)に、それほどに確信に満ちた思いはしなくなりました。時に不安や、疑念や、人を責める心も起こります。それにしても、やはり次元の上がった平安を感じるのです。信仰のステージが切り上がったという感じです。
 先に書いた「聖霊の油注ぎ」という段階は、この信仰ステージをさしている、とも言いたいのですが、そう言ってしまっては、これは高慢かなあ、と心配しているのも、私の現状です。みなさん、ご忠言ください。《く》

〔あとがき〕
雑誌「ハーザー」の〈随想〉欄に私の「日本よ、世界のカントリーとなれ」を載せてくれている。この「日岡だより」の207号所載の同名タイトルの拙文からの抜粋転載ですが、お読みください。▼ついでに書きますが、最近は教会の人々も世間並に読書力が落ちていると思う。読書力をのばすには、まず乱読を勧めます。背伸びしてでも、難しい本を読む。難解な熟語など気にしないで、読み進むのです。逆にまた、読みやすい子ども向きの信仰偉人伝などを読むのもよい。▼哲学や物理学の本など、本当にむつかしい本は、分かったつもりで無理やり読む。2、3べん読むと、なんだか全体像が掴めてくる。その上でもう一度、読み返す。これは相当忍耐を要しますが。▼聖書を旧新約全部通読という場合、この方法が良い。ある人はメシも食わず、夜も寝ないほどに聖書を読んだら、3日半で読んでしまったそうです。たしか、埼玉県の人でしたがね、埼玉にはこういう人材が多いようです、確かに! 《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2006-01-08 00:00 | 日岡だより
<< No.211 シラしんけん、ワ... No.209 すべてのものの新... >>