今日もクリスマスを
日本教会新報社が「クリスマスをあなたに」という新刊をだしている。当教会でも少し委託を受け入れて皆さんに奨めているが、クリスマスを知ってもらうために、まだ信仰を持っていないご主人や、キリスト教に興味を持ちはじめている友人たちに良い本だと思う。 20年ほど前、大分市合同市民クリスマスの説教者に選び出されて、その時の私の説教題が「クリスマスをあなたに」だったのを思い出した。 さて、今日はこの教会でのクリスマス礼拝説教も「クリスマスをあなたに」としようかな、と思い始めているところです。 * クリスマス! イエス様のご誕生は、何も2千年前のことだけではない。今も私たちに起こってほしいことである。それも未信者さんたちだけでなく、すでにイエス様を受け入れてクリスチャンになっている人々のためにも、と思っている。 本日の本紙の2頁以降、「悔い改め」という言葉の時制について書いていることを、改めてイエス様を信じるということ、つまりイエス様を私どもの魂に受け入れるということ、イエス様のご誕生のことにも、当てはめてみたいのです。こういう事です。 イエス様のご誕生を日々新しく体験しようというのです。言い直すと、「日々、クリスマスをあなたへ」ということになる。「今日も、クリスマスをあなたへ」と言いましょうか。 もっと極端に言い直すと、「常に私たちの魂にクリスマスを」ということになります。《く》 (2005.12.23、テレホン聖書にて) 「悔い改め」とは何か 付・「笑って祈る」こと 「悔い改め」という言葉は、ギリシャ語ではメタノイアである。このギリシャ語を「悔い改め」と訳すのは物足りない、と教えてくれたのは、かつての無教会の石原兵永先生であった。 メタノイアは「心の転換」であって、心の中心からの大転換を意味していると言って、それを「回心」と訳し直された。 その「回心」を英語ではコンバーションと言うのだと言って、若き日の私の脳裏に一撃を加えたのである。 石原先生の言うそれは、アウグスチヌスで言うなら、「取りて読め」と歌う子どもの歌声にうながされて聖書を開き、ローマ人の手紙13章の「夜ふけて日近づきぬ」という所から始まって「汝らイエス・キリストを着よ」というところで終わる聖書を読んで回心する、名場面である。 ジョンウェスレーで言うなら、アルダースゲートの教会でマルティン・ルターのローマ書講解の序文を読むところで「心の温まるのを覚えた」という回心。1738年3月24日夜8時45分のことである。こういう聖霊による魂の内面で深く転換する経験を指すのである。 石原先生の「回心記」という本では、その辺をくわしくご自身の経験をとおして叙述、また石原先生の恩師・内村鑑三先生の「コンボルションの記」を持ってきて、その所説を権威づける。内村先生の言う「コンボルション」とはコンバーションのことである。「コンボルション」と言う表記はローマ字読みに似て可笑しく感じるが、アメリカに在住して、アメリカの大学に学んでいた頃、回心した内村先生の肝腎の発音の記録であるから、内村先生表記のほうが正しいのかとも思うのだがどうだろう。もっとも今回のこの小論では、こうした発音問題はいささかも論ずるに足りない。 * 私はこの石原式コンバーション論に責め立てられて必死で「回心」を求めた。そしてしばしば書くように1944年11月23日、福岡刑務所の独房で明確に回心した。まさに標準どおりの「回心」であった。これは私の信仰の出発点であり、私の伝道の根拠となった。 この「回心」が無いかぎり、本当の信仰ではないと確信したし、だから伝道においては、この「回心」を体験させる事が私の目標となった。伝道の初期はこの一本槍で邁進した。 しかし、伝道の大先生がたの伝道方式をみると明らかに違うのであった。ビリー・グラハムやチョウ・ヨンギ先生の大衆伝道を見ると、しごく簡単、「悔い改めを迫って、信じますと言わせ、そして救いを宣言する」、そういう方式なのである。私には異和感があった。そして、そのような救いは、多くの脱落者を産むのが普通である。私はこの大先生がたの伝道方法に疑いを抱いた。 しかし、また最終的に包括的計算をすれば、私の伝道方法は実りが少なく、私の否定しがちだった大先生がたの伝道方法のほうが、収穫は多いのであった。 そこで私は会堂を建て、大衆伝道に心を向けた時から、大先生がたの伝道方法に切り替えた。それでも前時代の伝道法の癖が残っているから、ついコンバーション期待型になり、多数信徒獲得法はうまく行かなかったと言えるであろう。ご覧のとおりである。現に礼拝出席は減るばかりで、惨憺たる状況である。 * 「悔い改め」という言葉に返って考えてみたいことの第一は原語のギリシャ語においての、その意味の再検討。第二は、そのギリシャ語の時制の検討である。 第一、原語のギリシャ語は動詞のメタノエオーである。先に書いた石原先生流の求心的厳密な受取り方もあるが、もう一つは「考え方を変える」と読むことも出来るのである。石原先生流に厳密に自分の精神過程を責め立てないで、簡単に「考え方を変えなさいよ」と読むこともできる。これは窮屈に「悔い改め」を考えていた私には、革命的な読み方だった。そこへ持ってきて…… 第二、このギリシャ語の時制をしらべると、語尾変化があって、メタノエイテとある。しらべると、これは現在形である。ギリシャ語の動詞現在形は世界に珍しい性質があって、その動きを繰り返し習慣にまでなってしまう、という意味を持っている。 そこで、先に述べた石原先生流のコンバーションは唯一回限りの霊的経験に見えるのだが、イエス様がマタイ3:2やマルコ1:15で仰せられている「悔い改めよ」のご命令は現在形であって、「繰り返し何度も悔い改めて、習慣になるまで悔い改め続けよ」という意味になる。これは私にとって新しい発見であった。 そこで、この現在形解釈に第一の「考え方を変える」という字義をプラスすると、「信仰とは生涯、神様の言葉に従って考え方を変えることを繰り返し続けて、ついに習慣化してしまうことだ」と言えないこともない。 こうなると、深刻なルター流義認信仰や、鮮明なジョン・ウェスレー式聖潔信仰や、驚天動地のペンテコステ的信仰とも違って、なんとも風貌の違った気楽な信仰境涯が現われて来そうな気がする。これって本当だろうか、私は戸惑ってしまう。 付・「笑って祈る」こと 戸惑わずにはおられない、もう一つのことがある、それは最近、私は「笑って祈る」ことを覚えたからだ。 笑って祈り始めることもあるし、笑いを含んで祈っていることもある。また祈りの最後に「ワッハッハハ」と高笑いして、「アーメン、ハレルヤ」と祈りを閉じることもある。 この事は本紙の204号の終わりのほうに書いた。一部を多少訂正したが次に再掲載させて頂く。 ……祈りの秘訣と言うものがある。聖書では「信仰をもって祈ろう」とか、「イエス様の御名によって祈ろう」、あるいは「失望せず常に祈ろう」とか、そんな風に記載されていますが、もう一つちょっと気がつかないのが、以下の言葉です。 「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。実際的には、「主によって」を「主を仰いで」と読み替えると感じが出ると思います。 また、「喜びをなせ」という訳は文語文から現口語訳への伝統ですが、すこし訳し過ぎとは思いますが、良い訳です。 私はこう読みます。イエス様を見上げて、無理にでも喜びの顔と、喜びの声をあげて、イエス様に心の願いを申し上げよう。そうすると、イエス様は必ず私の願いを聞き入れてくださるという読み方です。 イエス様はおっしゃいました、「あなたがたのうちで自分の子がパンを求めるのに石を与えるものがあろうか。魚を求めるのにへびを与えるものがあろうか。天にいますあなたがたの父はなおさら求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:9~11参照)と。ですから、 イエス様を見上げて、喜びの声をあげてあなたの求めをイエス様に告げましょう。イエス様を見上げて喜びの声をワッハッハハとあげる時、私たちは悪い求め、快楽のための求めはしないのが不思議です。 更に不思議なこと、かすかだったですが、妙なる聖なる油が私の全身に注がれることを感じたのです。次の日に、また喜びの声を上げてイエス様に祈りましたが、今度は聖なる光が私の内に注がれました。イエス様が私たちの求めを清めて、そして答えてくださったと、私はその時、思いました。 この体験は私には非常に鮮烈で、私の「聖化」経験として、大きな意味を持っていたと思っています。 しかし、こうしたことは、これまで聞いたことも、読んだこともないし、多くの先人たちの経験に無いことのように思えるので、こういうことを言い出すのでさえ、思い上がりも甚だしいと思う。おこがましくて不遜な感じがする。それで、戸惑っているというわけです。 ともあれ、以上のこと、もっとくわしく「笑えば必ず幸福になる」の付録版として小冊子12頁に仕立てて作りました。ご希望の方はお申込みください。私の「笑いの実践神学(?)」としてはこの辺りで結論となるようです。 「笑い」について、やや大胆に吹聴しつづけてきましたが、もう10年近くになるでしょうか。永井先生や手束先生に共鳴を受け、激励されて今日まできました、厚く御礼申し上げます。《く》
by hioka-wahaha
| 2005-12-25 00:00
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