No.779 ただ、この儘で…… 2016.12.18

ただ、この儘で……

一、ただ、このままで、一言の申しわけもせず、
  あなたの血汐が、私のために流され、
  そして「我にきたれ」と私に命じ下さるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
二、ただ、このままで、一つの黒い汚点すら、
  私の魂より取り去られるのを待たず、
  あなたの血が、すべての汚れを潔め得るゆえ
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
三、ただ、このままで、悩みあるまま、
  多くのもだえと、多くの疑いと、
  内には戦いと、外には恐れと。されど、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
四、ただ、このままで、貧しく弱く、目も又見えず、
  されど、視力も、富も、心のなぐさめも、
  そうです、私の必要なものすべてを、あなたに見出すべく、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
五、ただ、このままで、あなたは私を受け入れ、
  喜びむかえ、許し、きよめ、救い下さる、
  そのあなたの約束を私は信じるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
六、ただ、このままで、あなたの無限の愛が、
  あらゆるとりでを打ちくだき、
  今や、私はあなたのもの、しかり、唯一あなたのものであるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
(シャーロット・エリオット女史の名歌。原田美実先生の訳詞を参照して口語訳した。讃美歌二七一番、聖歌二七一番の原歌である)
 
  • 先週の説教「百%を求める神は、又百%許す神」では上掲のシャーロット・エリオットの詩を紹介しながら語りたかったのです。百%の許しの神を知っていないと、人間は失敗した時に立ち上がれません。
  • 聖書はクリスチャンに百%の完全さを要求します。その良い例が、山上の説教と呼ばれるマタイ五章~七章です。「情欲をいだいて女を見るのはすでに姦淫をしているのです」とか、「汝の敵を愛せよ」とか言うところです。ガンジーやトルストイを感激せしめた有名な聖書の箇所であります。
  • しかし、たとえクリスチャンがどれ程信仰を燃やし精進したとしても、彼らもやはり人の子、必ず失敗します。そして、善良で真剣な人であればある程、その失敗に苦しみます。
  • 宗教改革者マルチン・ルターは「クリスチャンの生涯は、日々悔い改めの生涯であるべきである」と言いました。これは、クリスチャンになる時の唯一回的回心あ(日本語聖書では悔改めと訳してある。多少とも誤訳である)のことではありません。クリスチャンになって以後の、毎日の悔い改めをさすのであります。―――ということは、裏返して言えば、「クリスチャンとは毎日罪を犯すものの事である」とも言えます。
  • そんなバカな、と思われるかもしれませんが、気高き聖者程そのように自覚しています。「私は決して罪を犯していません」と言い張る人は、刑務所や大臣や議員諸君の中に多いのですよね。人は聖まれば聖まる程自己の罪を自覚し、汚れた自分を悲しみます。
  • しかし、クリスチャンとはそれだけではないのです。そのような私を百%根こそぎ許して下さる神の愛を信じ、その愛の許しに生かされるのです。
  • それが口先だけの信心、幻想的許しではない証拠に、クリスチャンは日々許されて、逆転的に聖潔にして完全なる勝利的人生を送るのです。百%の完全を求めた神は、又百%の許しを与えて下さる神です。そのようにして百%許されたクリスチャンは百%完全なる人生を送るべき目標をあらためて与えられます。
  • この完全なる人生を、全く完遂したとは決して言えないのだが、それを大胆に求め肉迫する生涯の実例を私供は聖パウロに見ることができます(ピリピ三・12~14)。論理としては循環論法的で矛盾して聞こえるでしょうが、実際にキリストの血により日々許される信仰生活を体験すると、よく分ります。
  • 浄土真宗や、遠藤周作氏の「弱さに徹する」式の信心と違います。現実の生活で勝利し、生きたクリスチャン・ライフを送る男性的信仰であります。
  • 生れつきの気質をあきらめてはいけません。キリストの血により、気質も必ず転換されるものです。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)
















[PR]
by hioka-wahaha | 2016-12-27 09:24 | 日岡だより
<< No.780 《聖書のことば》... No.778 《聖書のことば》... >>