No.206 救いと報い、信仰の喜び 2005.12.11

救いと報い、信仰の喜び
       第一ペテロ1:3~9、ヘブル11:6 

   一、神の国について
 イエス様の伝道の第一声は「時は満ちた。神の国は近づいた。」(マルコ1:15)でした。「神の国」という言葉は聖書の中で福音書や使徒行伝において、一つのキイワードだと言えます。
 「神の国」と言う言葉の内容には3つの段階があるように思います。まず私たちは、十字架にかかって私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったイエス様を信じます。その時から(ピリピ人への手紙に従えば)私たちの国籍は天にあるのです。
 私たち日本人がアメリカに行こうと、ヨーロッパに行こうと、またそこで住もうと、たとえそこで死んでも、私たちの国籍は日本にあるように、私たちがこの地上に住んでいても私たちの国籍は天にあるのです。
 もし「あなたの国籍は?」と聞かれたら、とっさに「天国人です」と答えるようでありたいですね。この地上で天国人らしく生きて日々を過ごす、そういう人たちが集まって交わりを持つ時、そこに地上の神の国が生れます。
 そうです、そこに教会があり、そここそ地上の神の国です。死んでから行く「神の国」ではありませんが、地上天国とも言える神の国です。神の民の集まるところ、この教会こそ神の国であります。
 まとめて言えば第1は、私たちの国籍は天にある、既に神の国の者であるということ。第2は私たちは今、この地上天国・教会に生きているということ。第3は、私たちは遂には主に迎えられて天の御国に入ることができるということ。この3つの段階です。

   二、救いについて
 ペテロの第一の手紙1:3~6は言います。
 「(神は)わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない(神の国の)資産を受け継ぐ者として下さった(=国籍が天にできた)のである。あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救い(天に迎え入れられる)にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、(天国に入る日のことを思って)あなたがたは大いに喜んでいる」と。
 主によって救われていることの喜びについて、3段階で語ってみましょう。
 第1は私たちが罪からあがない出され、新しく生まれさせて頂いて、神の子とされているという信仰を喜びます。
 第2は生きている間には、いろんな問題や困難もあるが、それに勝利する救いを獲得しており、更に私たちの霊性が高められ、信仰のランクがぐっと引き上げられて、信仰成長の飛躍的体験をもさせてくださる、その経験をする時、私たちは子どものように跳ね踊って喜びます。
 第3番目は、遂には神の国に入り、肉体もあがなわれる完全な救いを、天国にあって喜ぶのです。

   三、信仰には報いがある
 ヘブル11:6に「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」とあります。ここで言う信仰とは教条的な信仰ではありません。徹底して神様に近づく信仰です。「神に来る者は、神のいますことと、(神は)ご自身を求めるものに報いてくださることを必ず信じる」のです。
 信仰の第一番はイエス様の十字架を信じて救われる信仰でした。イエス様の十字架を信じて罪が許され、命があがなわれ、神の子とされて、国籍が天にあることを信じる信仰でした。その上で、
 日常生活において本当に、信仰生活が生き生きとして実りのある信仰、このヘブル11の6にある信仰を持つのです。この信仰を神様は喜んでくださいます。ですから、
 (1)神様が現実、真に存在することと、(2)神様ご自身を求める者に必ずご自身の臨在を報いてくださることとを信じるのです。
 究極の信仰は神様ご自身を求める事です。「求める者には神は必ず報いてくださる」と聖書は言います。この個所で用いられている「求める」という言葉は、原語では「ひたすらに必死に求め続ける」という意味です。
 尚もう一つ。この「報い」という言葉はヘブル人への手紙にしか出てこない言葉でミスタポドシアと言います。その人の功績や働きの実績に応じて確実に、本当に、正当に与える報い、という意味です。
 「報いを求めて働く」と言うと、「報いなどは期待しないで、無償の純粋な気持ちで働くのが本当ではないでしょうか。報いを求めて働く、と言うのは不純な感じがします」、という方もあるでしょう。
 なるほど、報いなんか求めないで、ただひたすら神様の御心に従う。それは良い信仰だと思います。にもかかわらず、ここでは「報い」という言葉を、働いた者に対する当然の報酬という意味で聖書は使っているのです。
 聖書を見ると、イエス様は報いを求めることを決して批判しないし、そういう信仰を拒絶していません。パウロも、「競走で走る者は賞をもらうため一所懸命走っている。私たちクリスチャンもすべて、神様からご褒美の冠を頂こうとして、ゴールまで走り抜こうではないか」、と言うのです。(なお旧約のネヘミヤ5:14などもご参考に)。
   四、神に喜ばれる信仰
上述の「神様ご自身を求めること」、これは信仰姿勢の極致です。そして、このヘブル人への手紙のお言葉に励まされて「ご自身を求める者に神は必ず報いてくださること」を信じようではありませんか。
 私は勉強が足りないからとか、信仰歴が少ないからとか、道徳的に失敗しているからとか、だから私はダメです、などと言わないことです。どのような人をも変わりなく、神様は愛して下さるのです。
 イエス様の王様の婚宴の喩えがあります。王様が婚宴を開いて皆を待っていた。聖書には、その時「善人も悪人もみな連れてこい」と王様はおっしゃったとあります。ただ王宮の入口で貸して貰える礼服を着なければならない。礼服を着て来ない者は善人でもダメ。礼服を着ていさえすれば悪人でもよろしいと、聖書は読めます。礼服とは何でしょうか。
 ローマ13:14に「あなた方はイエスキリストを着なさい」とある。そうです、イエス様こそ礼服です。イエス様を信じ、イエス様を着て、神様のところに行く時に、善人であろうと悪人であろうと、神様は受け入れてくださるのです。
 その王宮に入って、愛にして真実なる父なる神にお会いする時、子どものように、「お父様」とすがりついてご覧なさい。「おお、お前か、よく来たな」とおっしゃって抱きしめてくださることでしょう。
 そのようにして、天において神様とまったく一つになる信仰の喜びが成就するのです。そして、その時、顔を上げて父なる神様を見ようとすれば、そこに見えるのはイエス様のお顔ではなかろうかと、私は信じるのです。   (1998.10.11.週報より再掲載)

〔感謝〕
妻トミのことですが、本年5月27日に脳梗塞を起こし、脳神経外科の病院に入院しました。一応、脳外科の治療を終わったものの、意識や運動の能力が麻痺しているので、6月10日にリハビリ治療を受けるため湯布院厚生年金病院に転院しました。それ以後、半年の療養を経て、先日(12月9日)に退院して自宅に帰って来ました。まだ身体の運動も会話の機能も麻痺状態でありますが、それでも退院数日前から回復の兆しが見え、また帰宅しての、その夜から回復の様子が一段と目だって見え、喜んでいます。これも神様のなされるところ、また諸先生方、諸兄姉のご加祷の結果と感謝いたしています。これまでの何度か難病を経てきた妻ですが、その度に奇蹟をもって喜びを与えてくださった主の、更にこの度も奇蹟を表して下さることを信じているしだいです。(釘宮拝)
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by hioka-wahaha | 2005-12-11 00:00 | 日岡だより
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