No.760 聖書のことば「われらは倒れず」/マジメとカシコサ 2016.8.7

《聖書のことば》
われらは倒れず

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ一・6)
 
 俳優田宮二郎が自殺しました。佐藤文生代議士言うところの「国際的スケールを持った」男、ある新聞は「自ら提言して」大成功をねらうタイプであったと言います。しかし、彼は自らの人生プログラムに破れたわけです。
 私どもも、今年は大きい夢を抱きました。信じて祈りました。しかし、まだまだ多くの未完成の夢が多いのです。しかし、失望しません。倒れません。主が、「この日だ」と定めてくださっている日、その日に万事はかならず成っていくと、信じているからであります。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


マジメとカシコサ

 三浦綾子さんの出世作「氷点」は、朝日新聞の一千万円懸賞小説の入選作でした。入選の感想に、「これはキリスト教でいう原罪をテーマにした小説です」とはっきり言って世の人の目を見はらせたことは、今も記憶に新しいところです。
 その時、この入選を知った御主人の三浦氏はさっそく夫人をともなって二階に上り、ともに座って神様の前に祈ったそうです。それは神様への深い感謝でした。そして、夫人が有頂天になることを戒め、応募して落選した他の七百三十人の落胆を思いやり、そして与えられる賞金を自分のためにではなく、他の人の為に使い得るようにとも祈ったそうです。
 なんともエライ人じゃなあ、と感嘆しますね。この話は「うれしい時の神頼み」という不思議な題で書かれています。くわしくは新刊の「天の梯子」(三浦綾子著・主婦の友社)をお読み下さい。
 
 さて、私はこの時の三浦氏に感心するのは、こういう時に、こういうマジメな祈りをしようと、心の中で思う人は案外多いでしょうが、これを実行することがむつかしいのに、これを実行してしまうカシコサについて三浦氏に敬服したいのです。
 今年の九月十日、韓国より白先生、金先生がお見えになってすばらしい聖会をもって下さいました。あの時より、信仰の成長した人が多くいますね。私の家庭もすごく変ったと思います。あの時、両先生は四日間程滞在され、K姉の献身的韓国料理に舌つづみを打って、天国的だんらんの日々をすごしたのでした。たえず「ハレルヤ、ハレルヤ」と連呼される金先生におどろかされましたが、いつしかその習慣が私達にもついてしまい、そして常に信仰のコトバを語る人に変えられていました。
 
 正直なことを言って、私はざっくばらんに物を言うほうだと思っていますが、それが度をこして世間ずれした冗談や下品な言葉、くり言を言うことになりやすいのです。かたぐるしくない、牧師らしくない牧師としてのポーズを見せたい下心も少しはあったのですね。そこで、私生活において、あまり信仰ぶかそうな言動をすることに照れを感じる―――、そんな風になってしまいます。
 いわゆるタテマエは教会堂の中で言うだけ、家庭ではホンネが出る。このホンネというのがこわいのでして、よく考えるとホンネは肉の感受性を通して入ってくる世の声、サタンの声であることが多いのです。霊からひびいてくる神の子としてのホンネではないことが多いのです。
 
 マジメとは、間をしめることである、とある人は言いましたが、こういう語呂あわせはともかく、サタンのつけ込むすきをしめる為には、内なる心で、「さあ今妻と共に祈ろう」と示されたら、さっさと妻をさそって共に祈るようにすることです。照れて、ぐずぐずしていてサタンに侵入されるすき間を作らぬことです。それが、へびのごときカシコサです。先程かいた三浦氏のマジメさ、カシコサはそれであります。
 
 白先生、金先生との四日間の交わりの中で、とくに教えられたのは、この事でした。肉のホンネは、完全にしめ出すこと。そして霊のホンネ(つまり世の人から見ればつめたい堅苦しいタテマエ的表現になりやすいのですが)によって生きるのです。これが、偽善や律法主義にならないのは、罪の許しの確信と、内在の信仰によるのであります。
 
 さて、この三浦綾子さんの「天の梯子」は、祈りについての本であります。まだ他にも大変良い文があります。祈りについては、日本の教会はもっと実技的指導が必要です。この本の紹介も兼ねて、次号にも書き続けたいと思います。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-12 13:05 | 日岡だより
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