No.205 サタンから奪還せよ 2005.12.4

サタンから奪還せよ

 私は最近、教会の信徒のみなさんに一冊の本を推奨しています。それはジェリー・サヴェルという先生の書いた本で、「荒野に水が、荒地に川が」という本です。けっして安いとは言えない本ですが、みなさんに買ってほしいと思っています。近く、この本で読書会をしたいと思っているからです。
 この本の一番大事なメッセージは、私たちが神様から与えられている祝福を、サタンから奪い取られているということです。そして、このことを「我慢ならない理不尽なことだ」と自覚せよということです。「この侭ではたまらない。私は私の奪われたものをサタンに向かって『我に返せ』と言おうと決心せよ」と言うのです。
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 私たちクリスチャンは、この世にあって絶対的勝利者であるべきです。パウロは、「わたしたちは、すべてのことにおいて勝ち得て余りがある」と言っています。しかし、現実には私たちはしばしば敗北を喫しています。なぜでしょうか。それはサタンから騙されているからです。
 クリスチャンはイエス様のあがないによって、ひとたび罪を赦され、すでに罪人ではないはずです。しかし、敬虔なクリスチャンほど毎日のように「私の罪を赦してください」と祈っています。また「私は罪人です。罪人です」と告白している人のなんと多いことでしょう。
 多くのクリスチャンたちが、イエス様が「求めよ、そうすれば与えられる」とおっしゃった重大な約束を忘れているのです。もしも、金や物が無くなると顔色を変えて狼狽し、だれに借金を申し込もうかとあせるのです。なぜ、まず万物の所有者である神様のもとに駆け込まないのでしょうか。
 主は言われます。「私は主であって、あなたがたを癒すものである」。ところが、みなさんが体に異様を覚えると、すぐに「癌ではないか」とおびえて医者に飛込みます。なぜ、まず最大の医師である神様の膝下にゆかないのでしょうか。
 私はしばしば信徒のかたに質問します。「みなさん、病気になったら、一番にどうしますか」。「はい、神様に祈ります。そして牧師先生に電話します」などと答えてくれれば、私は満足しますが、実は一番なさってほしいのは、まずご自分で「サタンよ、私から離れ去れ、私は病気になぞ負けないぞ」と宣言することです。
 あなたがたの家庭や、友人仲間のなかに誤解や不和が生じる、そうした人間関係の困難がやって来たとき、「あなたがたは愛し合いなさい」というイエス様のご命令を厳粛に受け入れましょう。
 そして、「私たちの間に疑いや憎しみをもたらしているサタンよ、主の御名によって命じる、去って行け」と命じるのです。
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 実はそれらの困難な状況はクリスチャンに起こるはずは無いことです。しかし事実は、しばしば私たちはそのような困難に遭遇します。それはサタンの仕業、サタンの撹乱戦術です。
 こうした状況から私たちは逃げ出すのではなく、私たちをだまし、私たちから神様の祝福を盗み取っているサタンに対して戦いをいどみ、彼らを退け、勝利を宣言しましょう。
 実はサタンの軍勢とは悪霊どもなのですから、そいつらを追い出し、追い掛け、奪った彼らの戦利品を奪い返せということです。盗人の盗んだ品々を、私たちが取り返す時、聖書の教えでは、4倍か7倍の賠償を取ることになっていると、前述の「荒野に水が、荒地に川が」の中でジェリー・サヴィエル先生は言っています。
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 ジェリー・サヴィエル先生は奪われたものの「回復」と言っています。「回復」という言葉は10年か20年ほど前のカリスマ集団では流行の神学用語でした(「回復」のことについては最後の補遺をお読みください)が、それはともかく、私は今、ジェリー先生には悪いけれども「回復」という言葉を変えて、「奪還」と言う言葉に替えたいと思います。
 人類の最終的「回復、つまり奪還」は主のご再臨の時に成就します。最近の社会情勢や科学や軍事模様の動きを見ていると、その時は近づいていると思えます。(先々週のNHKで巨大くらげの発生が特集されていました。人間の貪欲な文明の総決算が目前に迫っている感じがしました)。
 それらはすべてサタンの狡猾な奪取戦略です。これらサタンを追いたてる戦術について、私の発見した武器を公表します。それは前号に書いた「笑いによる祈り」です。
 私はかつて言ったことがあります。「ワッハッハハ」と高笑いしましょう。我々の笑う声を聞くとサタンもはだしで逃げるのです」。
 ジェリー先生の「荒野に水が、荒地に川が」の本の終わりのほうにも、こんな言葉が出てきます。
「ヨエル書2:21によれば、私たちが『回復』を体験したいのなら、まず『喜べ、楽しめ』を先にしなくてはならない。昼食の招待を受けた場合、御馳走を食べる前に『頂きます』と礼を言うようなものです。神様の祝福を回復(奪還)を信じる者は、それを迎える前に喜び楽しんで感謝するのです」。
 私は提唱します。「主にあって喜び(笑い)をなせ、主はあなたの心の願いをかなえられるであろう」(詩篇37:4)、この言葉を唱えましょう。そして「ワッハッハハ」と高笑いして、サタンを退けましょう。アーメン。《く》

〔笑いの運動について注意〕
 去る11月22日のTBS系の「はなまるマーケット」で、「大いに笑いましょう」と私の十八番を横取りしたような放送があった。「笑いの基礎練習」と称して顔の筋肉の体操を教えていた。結構なことなのだが、笑い顔と同時に怒った顔を作ってみましょうとか、顔の筋肉の訓練にひょっとこのような口をさせてみたり、妙に目くばせをさせたりさせる、これは良くないと思った。
 顔の表情筋肉を大いに練習させようという発想は良いことのようだが、怒った顔やおどけた顔や泣きべその表情はそのまま感情脳のほうに悪い印象を印刻させるので良くないのだ。楽しい愉快な、活き活きとした感情を植えつけ、倍加させる、私の「笑いましょう」運動の意図とは全く別物である。最近は「笑いましょう」運動も、各所で殖えてきて、大いに感謝であるが、こうした問題のある指導も各所で行われているようだ。□く

 〔補遺・回復の神学について〕
かつて「回復」と呼んだのは、中世のヨーロッパ教会において失われたた原始教会の信仰を、現代に回復するのだという意味に使われていたかとも思います。神学音痴の私には自信はありませんが、こういうことでなかったでしょうか。まずルターの宗教改革によって「信仰義認」の信仰が回復され、次にジョン・ウェスレーによって「聖化」の信仰が回復され、次にA・B・シンプソンによって「神癒」の信仰が回復された。又、1900年代に、カリフォルニアで異言を伴う「聖霊」信仰が回復されたというように。「聖霊」信仰の回復は私の先師・手島郁郎先生に従えばカリスマタ(カリスマの複数)の時代の到来と言うべきかと思います。私の考えによりますと、それ以後チョウ・ヨンギ先生などによって「繁栄」の信仰や「悪霊解放」の信仰も回復してきたと思っています。▼ジェリー先生に言わせると、200年前は「私は救われています」と自信ありげに言うだけのことでも、はばかられたと言いますし、50年前に私が「すべての病気は主が癒されます」などと言い出して、神癒伝道を始めた時も、周辺の牧師先生がたからは奇異の目や批判の目で見られたと思います。ですから、「悪霊追い出し」などを始めると、もう論外だよ、というような批判が向けられたものです。最近では、こうした前衛的回復の現象は次第にキリスト教界のメインラインでも全般的に受容されてきているのではないでしょうか。▼なお、方々から不審がられるかもしれませんが、今後どしどし回復されて然るべき分野を次に挙げてみます。(1)信徒たちの無所有共同生活の回復。(2)社会に対する奉仕活動の回復。これは救世軍やマザー・テレサなどの活動に燭光が見えます。(3)最後に、もう一つはダビデの王国の回復です。日本流にいえば祭政一致ですね。多々批判も受けるかも知れませんが、真にキリストの福音が日本民族に豊かに息づく時、日本の政治も経済も教育も変わるでしょう。神の権威と教え、愛と正義が国家の中核となるはずです。現状から類推すれば、この成長過程では創価学会の強力な牽制に遭うことでしょうが、この国の年来の創価学会の成長ぶりこそ、私たちにとり良い研究課題でもありましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-12-04 00:00 | 日岡だより
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