No.747 「感謝します」/時事雑感 2016.5.8

「感謝します」

「先生はよく感謝します、感謝します、と言うですねェ。聞いていて、何を感謝しているのか、さっぱり分らん。何でもない時に、感謝します、感謝します、と言う。気になるなァ。先生の感謝します、感謝しますは」
 と、久しぶりに会ったK君が率直な表現で人に言っているのを、小耳にはさみました。それを聞いて私はうれしくもあり、又反省もさせられたのでした。
 
 最近、私は私の体験するたいていの事が神様への感謝のタネであります。又、できることなら、一切のことにおいて神様をあがめ、感謝したいと願っています。そこで、つい椅子にすわっても「感謝します」、立っても「感謝します」、みそ汁をこぼしても「感謝します」というぐあいですから、K君が異様に感じるほど「感謝します」を多発していたのかもしれません。それ程のこととは自覚してなかったので、K君の批評は大変うれしかったのであります。
 
 しかし、もう一つの見方が出来ます。それは、多分私の「感謝します」が、余りにも軽々しく言われているようで、真剣味の無い口さきだけの言葉に聞こえたのかもしれません。いわゆる「口数が多ければきかれると思っている異教徒の祈り」のような事はあってはならないのでありまして、この点は大いに反省させられたのであります。
 二、三年前、ある派の教会に行ったとき、玄関でいきなり「感謝します」と挨拶されて、とまどいもし、ある種の反感さえ持ったのでしたが、今は慣れっこになってしまって、私達自身同様のマンネリ化した「感謝します」の冗舌をくり返しているのでしたら、大いに愁うべきことであります。
 
 「賛美の力」(マリーン・キャロザース著)という本に啓発されて以来、すべてのことにおいて神様をさんびし、神様の御計画を信じ、現状を神様の御心の故に肯定し受け入れ、すべての事を(善きも悪しきも)神の御手により相働いて善い方に変えて下さることを信じる、との事を知識的にも体験的にも学んできたのでありました。
 
 この三月、Y君がK花店をやめ、私の手許もはなれ、F工場に行くと言い出した時は、私をはじめ周囲のものは、みんな反対でした。常識的に考えて少しも「善い」こととは思えませんでした。Y君はみんなの反対を押しきってF工場に行きました。然し、そこで何故か分りませんが彼は元気を回復し、その上M君という又とない求道の友を得ました。先日の礼拝には、F工場の同僚二人の友人と共に出席し、その面前で証詞に立ちました。
 反省してみると、この事では当初より私達は神様の御心を問いませんでした。そして常識ばかりで反対していました。しかし、神様の御心は別の処にあったようであります。
 ともあれ、当時Y君を送り出して以後、私達は一切を神様にゆだね、万事を益に変えて下さる神様をさんびしたのであります。そして、御覧のとおり神様はそのさんびにふさわしい方でありました。
 「神様!感謝します」
 この言葉を一生つづけたいものであります。
(1978.5.14週報「キリストの福音」より)


時事雑感

植村直己氏が世界最初の単独北極点踏破をやってのけました。そんな無茶な事ができるのかしらと危ぶんでいましたら、わけなくやってしまいました。相当危険や困難もあったようですが、それにしても矢張り茶の間の我々には僅かの間にあっけなくやってしまったように思えます。戦前の人間である我々にはアムンゼンとかスコットとかいう英雄ばりの名前と一つになって知っている北極が、急に親しげにそばにやってきた感じです▲何と言っても無線、人工衛星による追跡、ヘリコプターによる食糧補給等、昔にはとうてい考えられない文明の機器の援助があります。これらのものがなくては、今回の植村氏の探検の成功は考えられません。時代の変革によって昔出来なかった事も今できる、そんな事はたくさんあります▲信仰にも、そういう処があります。イエス様がいらっして、十字架と復活を経験して下さらなければ、信仰による赦しは人間に分りませんでした。ペンテコステのすばらしい経験がなければ、無学な只人がこの世の権者智者の前に大胆にふるまう事は不可能でした。昔、預言者や一流の宗教的天才でなければ出来なかったような事が、今平凡なる我々に出来るのであります▲聖霊がのぞむ時、イエス同様の、いやイエス以上のことも出来るとイエス御自身が仰せられた。そのようなすばらしい聖霊の時代が、今である。
(1978.5.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-05-13 09:23 | 日岡だより
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