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No.742 心はおのれの鏡である/自殺は許されるか 2016.4.3

心はおのれの鏡である

 人は鏡を使ってしか、自分の顔を見ることは出来ません。人は鏡の前にいるとき、あまりおかしな格好はせぬようであります。(人が鏡の前でおかしな顔をするのは、子供のようにわざとふざけるときか、或は男性のヒゲをそる時のみであります)。
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 人がおこったり、泣いたり、すねたりしている時、その人の前に鏡をさし出したら、多分その人はプッとふき出すか、あるいは嫌がって鏡を払いのけるかでありましょう。
 もし、人がいつも鏡を前にしておれば、(又、そうしておれるようであれば)、その人は常に表情を正しくしておる事ができます。
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 聖書(ヤコブ一・23~24)は言います。
「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」。
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 ところで、人間は鉄やガラスにまさって、すぐれた鏡をもっているのであります。鉄器の鏡もない頃、人間は水の表を最も良い鏡とした事でしょう。箴言二七・19にいわく
 「水にうつせば顔に顔が答えるように
人の心は、その人をうつす」
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 人間の霊(人格の中心・実存・本当の私)は、あたかも人の顔のように自分を見ることができないのです。誰でもちょっと自分の内部をさぐれば分りますね。いろんな思いと記憶が浮び出ますが、「我」がどこにあるのか、まことにむつかしい。ヒトミがヒトミをさがすようなものであります。人は鏡で、その人の顔を見るように、人の霊は、心にうつる思いを見て、自分の実相をさとります。
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 故に、自分の心を見るという事がいかにも大事になります。むかし、これを「自観法」と呼びました。目を他人にむけず自分にむけるから最初の悔い改めがおこります。困難な時にも、悩みもだえている自分を見つめつつ主を仰ぐから、謙遜と勇気が同時に出ます。罪をおかしやすい自分と、救われている自分を、どちらも正直に見つめ、そこで落ちついて対処できます。あわてず一息入れて、主を呼ぶ事が出来ます。
(1978.4.9週報「キリストの福音」より)
 

自殺は許されるか 

 四十年程前、あるドイツ映画を見たことがある。(その頃のドイツは、名画を多く世界に送り出した)。ある少女がきれいな湖で自殺し、その葬儀を教会の司祭が拒絶した。私は、その律法主義のかたまりみたいな司祭をにくみ、少女の自殺を嘆美した。
 私はその後数年して、ある事由で自殺をくわだてて失敗した。私には自殺者の冷徹なまでのむなしい気持がよく分る。自殺した事のない人間が、自殺者の気持をいくらあれこれと批判してみても、矢張りよく分っていないのだ、と弁護したくなる。
 しかし、それでも自殺の罪は最大であると言いたい。主は「自分を愛するように、人を愛せよ」と言われた。人を愛する、という人はその前提に、おのれを愛する人でなくてはならない。おのれを殺す人は、人を殺す人であると言われても仕方ない。自殺は、最大の殺人行為である。
 心が最大限にきれいな人が、人生の最後の道に於て最悪の選択をした時、その人の「司祭」は、その葬儀に実に困る。あの映画の中の司祭のように、あっさり拒絶は出来ず、かと言って葬送の言葉がない。「その人は生れなかった方がよかったのに」と言うほかはないのであろうか。
 自殺者(他の悔い改めぬ罪人も含めて)の死にさいして、なぐさめの言葉は、聖書六十六巻中、本当に僅かしかない。
「こうして、彼(キリスト)は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(第一ペテロ三・19)
「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」(第一ペテロ四・6)
 実は、この霊どもとは、ノアの時代の人々(つまりまだキリストのあがないを知らない人々)の事であってキリストの救をうけられた人々の事ではない。「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」となった者が、御子をさらし者にして、再び悔い改めに立ち帰ることは不可能かもしれないのだ(ヘブル六・4~6)。
 ここに至っては、私達はもはや「死人の事は死人(真実の死者はキリストのみ)にまかせよう」(マタイ八・22)というほかはないのだ。
(1978.4.9週報「キリストの福音」より)



by hioka-wahaha | 2016-04-07 13:31 | 週報「キリストの福音」
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