聖霊をうけよ
人間の特徴の一つは
向上心である
健康で、家内仲よく、金もできた
それだけで幸福になりきれない
向上心がある
聖くなりたい、愛の人でありたい
つよくなりたい
そういう求めにこたえる
神の国のエネルギーが
聖霊である
聖霊をうけよ
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)
疑似信仰をさけよ
かつて、私の家に夏みかんの木がありました。それは見るからに立派な木で、いかにもおいしい夏みかんがなりそうな木でした。
しかし実際には、まるでおいしくない、誰にもあげられそうにない夏みかんが出来るのでした。
そこで、一生懸命肥料をやりました。摘果しました。そして、見るからに立派な実が出来ました。喜んで食べてみたら、やはりおいしくないのでした。とうとうあきらめて、その木を切ってしまいました。
イエスは言われます。
「良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ七・17)
一時のごまかしに、おいしい夏みかんの実を買って来て、その枝にくっつけることは出来ます。しかし、来年また良い実が出来るわけではありません。来年になると、やはり元のままの悪い実がなります。木が悪い木であるからです。
いくら、大きい、見かけの立派な実が、たくさん出来たとしても、食べてみておいしくなかったら、その果実は不合格であります。果実検定所で一ぺんにはねられてしまいます。
さて、人間の品質検定があったらどうでしょう。
しばしば、世の新興宗教は奇跡や幸福を売り物にしています。
宗教に奇跡はあるべきですが、奇跡を第一の看板にし始めると、その宗教はあやしいのです。
そのような宗教の、端的に約束することは幸福ですが、その幸福は「健康、平和、富」の三つ。これだけで、これを超えません。
「健康、平和、富」―――これさえあれば、幸福であるような錯覚にとらわれやすいのですが、これは前述の夏みかんの例で言えば、味を問わずして、大きさや量だけを問題にしているのだと言えるのです。
大きさや、量や、格好も大切でありますが、更に大切なのは中身の味です。
自分の心を清めず、罪も悟らず、罪の許しも与えられず、ただおそなえし、おはらいを上げて、一時しのぎの病気なおし、幸福が来たからと言って、偽物の信仰をしていると、心は益々貪欲になり、サタンのとりこになってしまいます。
恐るべきは、人間の利己的欲心、世俗的貪欲に妥協して御利益で人を釣る疑似信仰です。
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)
だれにも「天の役目」がある
◇職業を神よりの召命と信じた宗教革命の天職観は、よい意味での資本主義の隆々たる勤労意識をうんだ。
◇職業をすべて横すべりに天職と見なし、私利私欲に職業意識をかきたてて資本主義は堕落した。
◇新しい天職観は、それは実は聖書の古い古いスチュワード・シップ(家令意識)である。
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)