No.735 知恵を求めよ 2016.2.14 

知恵を求めよ 
(週報1978.2.26記事の「知ることの大切さ」に付随して)
 
 今は頭でっかちの知的信者の多い時代であります。そこで、つい信仰の知的学習がおろそかにされて、意志が、もしくは感情を主にする教会が、いわゆる〝良い教会〟に多いようであります。
 
 しかし、信仰は知ることはなくして、おこり得ないのであります。
 知る→信じる行う、これが信仰の道筋であります。
 
「知恵に向かって、『あなたはわが姉妹だ』と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ」(箴言七・四)
 
 祝福の信仰(週報九号・昨日の説教)をもって、右の言葉を受け入れましょう。
 つまり、知恵を、姉妹・友というように親しく身近なものとして信じて、自分のものとすることです。
 
 ある人にとって(自分は愚かである、才能がないと思っている人にとって)、知恵は思いもつかぬ高嶺の花であります。
 信仰によって、やさしさや、平安が来ることは想像がついても、信仰によって知恵が与えられるとは、どうしても考えられぬのです。
 
 しかし、知恵もまた、神の賜物であります。これを神に求めなさい。
 
「わが子よ、知恵を得て、わたしの心を喜ばせよ」(箴言二七・11)
 
 あなたは、あなたのまことの父、神様を喜ばせようとは思いませんか。もし、そう思うなら、知恵を神に求めなさい。
 
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ一・5)

 この知恵はギリシャ人の求める知恵ではありません。この世の知恵ではありません。(第一コリント一・18~25)
 キリストこそ、われらの知恵であります(第一コリント一・30)が、この真理が同節の「キリストは……、義と聖とあがないとになられた」という言葉に比して、ないがしろにされています。
 キリストを、われらの義と聖とあがないとして、信仰をもって受け入れるなら、同様に知恵も受け入れてほしいものであります。
 
 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」
 私自身、長い伝道生活の中で、無知のため、ずい分無用のトラブルや、信徒の方に辛いまわり道をさせたなァと、申しわけなく思うことがよくあります。
 独立を重んじ、伝承をきらった私には、勿論良い点もありましたが、あのハナっ柱のつよいパウロでさえ、大事なことは人より伝えられ受けたというも、(ガラテヤ一・12にかかわらず)事実でありましたからね。
 
 私自身、古いことで、あやまっていた、あるいは足らなかったと思う点を、ドンドンなおしています。以前の私の言行を覚えていて、不思議に思うこともありましょうが、不審な点はおたずねください。そして益々学び、信仰の向上をはかろうではありませんか。
(1978.2.27「牧会通信」第一〇号より)







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by hioka-wahaha | 2016-02-18 08:22 | 日岡だより
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