No.204 死んで生きる 2005.11.27

死んで生きる

 「死んで生きる」、こういう言葉は日本人好みの人生観かもしれない。こうした言葉を簡単に言い切る人もいる。特に禅宗になじんだ人たちの中では。
 私は、先日、大分県下のキリシタン遺跡巡礼のバスツアーに参加しての帰途、この言葉の重みをしみじみ感じたのであった。特に国見町のペトロ・カスイ岐部神父の記念館を訪れた後の、帰りのバスの中で今回の遺跡巡礼を主催し、その案内を買って出てくださった篠光子先生の車中講義を聞いた時、深く感じ入った。こうした殉教の方々こそ、正に「死んで生きた」人であったと。
 神様の前に無力になりきってこそ、人は真に生きる事ができる。人は、その時、まったく主にすべてを委ねることが出来る。
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 私が、そのことを最初、分ったのは22歳の時であった。1944年(終戦の前年)の11月23日、当時は新嘗祭という休日であったが、その日、私は回心した。
 正確に言い直せば、聖霊に回心させられたのである。当時、私は非戦主義者として福岡刑務所の独房に入れられていた。ここまで来ては非戦主義はもう棚上げである。私は否応なしに自分自身の霊性に対面させられた。私は自分の汚れ果てた罪の性質にホトホト困惑した。内なる自分を殺すしかないのである。
 しかし、如何にがんばっても私の場合には「己れに死ぬ」と言うことは不可能である、と悟った。「死のう、死のう」と頑張っている本体が「自我」であるからである。私は自殺出来る人が羨ましかった。失恋や貧乏の程度では自殺する意志を働かせることが出来るからである。私には他のことで本気で自殺を図った経験があるので、その経緯が分かる。本気で自殺しようとする時、甘美さを感じる人さえいることを私は理解できるのである。
 その時、私は究極の罪意識からくる絶望感に陥って3日を過ごした。あんな絶望感は他に無いと思う。しかし、その3日目、イエス様の御言が私の心を射抜いた。「自我に死のう、自我に死のう」とがんばっていた、その「自我」が、主の御言によって一瞬に死んでしまったのである。この辺の心理過程を説明することは、これ以上難しいが、とにかく私は死んだのである。そして生きた、生き返った。
 キリストの福音は、イエス様の十字架の死にある。そして、その復活にある。聖霊様が、そのイエス様の死と復活を私自身のものとして体験させ、かつ私の中にキリスト意識を内在させて下さるのである。
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 とは言え、人間の意識は更に更に内面に深く食い込む性質があって、私の罪意識は簡単には消えないのである。私の20歳代の小論に「罪人われ」というのがある。私は確かに救われている、その信仰は確かに持っているのだが、相変わらず、私は自分の「悪しき思い」や、「悪しき言葉」、「悪しき行為」を捨てられず、困り果てるのである。
 この問題は後に私のキリスト内住体験が更に深められることがあって解決するのだが、それにしても困難な信仰の道程であった。
 こうした時、起こる祈りは「私は罪深い者です。力の無いものです。私を憐れんでください」と訴えるほかはない。讃美歌に「弱き者よ、我にすべて任せよやと主はのたもう」という讃美がありますが、これは長いあいだ私の愛唱歌でした。
 事実、私でなくても多くのクリスチャンがよく祈ります。「神様、私は無力です。この無力な者をお救いください。私は無力のどん底にいます。こんな駄目な者を支えて、お助け下さるのはあなただけです」などと。これは決して悪い祈りではない。
 確かにパウロも言っています。「神の力は弱いところに完全に現れる。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。私は弱い時にこそ強いからである」(第二コリント12:9~10)と。
 私たちは全能の神様の前には、ケシつぶのような、小さい無力なものです。ですから、神様の上よりの力を求める時、私たちは謙遜に平伏して祈るのです。これは良いことです。
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 しかし、このような言葉を毎日のように告白していると、本当に小さな無力な者になりきって何も出来ないクリスチャンになってしまう恐れがあります。私は思います、クリスチャンが本当に無力であって良いわけはない。私たちには、たとえ小さな者であっても、尚かつ力はあるはずです。
 ヨハネ黙示録3:8では御霊はヒラデルヒヤの教会を称賛しています。「あなたには少ししか力が無かったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかった」と。ヒラデルヒヤの教会は決して無力ではなかったのです。力は小さかったけれども、その力を全力使って信仰の証しを立てた。それを御霊は誉めてくださっています。これこそクリスチャンのあるべき姿でありせんか。
 「私は無力で何も出来ません」と泣きべそをかいているのがクリスチャンの標準ではありません。クリスチャンは力は小さくても、その小さい力を尽くして主に仕えるべきなのです。「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言った、あの同じパウロは第一コリント15:58でこう言っています。
「愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と。
 事実、神様を愛する点において、私たちは全力を尽くすべきです。マルコ12:30を拝読しましょう。イエス様はおっしゃっています。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なる私たちの神は、ただひとりの神である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』」と。
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 私たちが「力が無い」と言ってへりくだるのは、神様の前にある時だけです。そして私たちが神様の前にへりくだる時、神様は私たちに力を下さいます。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。
 また「聖霊が下る時、あなたがたは力を受ける」と約束されたのはイエス様です。また、すでに旧約聖書でも言われていました。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)。
 だから私は言いたいのです。主を仰いで喜びましょう。主は力を下さいます。この地上の戦いでも、世の勢力に負ける必要はありません。この世の君はサタンだとも言いますが、私たちは当然サタンにも勝ち得ます。いや、それ以上に勝ち得て余りあるからです。ここに福音の勝利があります。「福音」とは喜びのおとずれです。だから「ワッハッハハ」と笑えるのです。当然、喜びは更に燃え広がります。(ここの所は先だっての高砂アシュラムで手束先生が力説したところです)。
 ここで、私の提唱する「ワッハッハハ」宣言は、実証されています。笑えば笑うほど喜びは倍加するのです。そして、力は更に増し加わり、クリスチャンは世界のどの分野に行って誰にも負けない活躍が期待できるのです。さあ、みなさんあらゆる分野に出て行って勝利を得るのです。
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 追加したい私の発見があります。思いきって言うと、「主にむかって、笑って祈ろう」というのです。一寸、不謹慎ですねえ、勘弁して下さい。私はこの祈り方の基礎として、次のみ言葉を挙げます。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。
 有名なマタイ7:7の「求めよ、さらば与えられん」、口語訳では「求めよ、そうすれば与えられるであろう」ですが、「私は求めてもなかなか与えられません」と、不満を訴える方たちも多かろうと思います。求めて与えられないのは、なぜか?
 「快楽のために使おうとして悪い求めかたをするからだ」とヤコブ4:3は言うが、それだけでもない。下手な求め方をするからです。それでは上手な求め方というのがあるのか、あるのです。
 聖書には祈りの秘訣として、「信仰をもって祈ろう」とか、「イエス様の御名によって祈ろう」、あるいは「失望せず常に祈ろう」などと、記載されていますが、ちょっと気がつかないのがこの言葉です。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。
 「主によって」を「主を仰いで」と読み替えると感じが出ると思います。また、「喜びをなせ」という訳は文語文から現口語訳への伝統ですが、すこし訳し過ぎとは思いますが、良い訳です。
 私はこう読んだのです。イエス様を見上げて、無理にでも喜びの顔と、喜びの声をあげて、イエス様に心の願いを申し上げるのです。そうすると、イエス様は必ず私の願いを聞き入れてくださるのです。
 イエス様はおっしゃいました、「あなたがたのうちで自分の子がパンを求めるのに石を与えるものがあろうか。魚を求めるのにへびを与えるものがあろうか。天にいますあなたがたの父はなおさら求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:9~11参照)と。
 イエス様を見上げて、喜びの声をあげてあなたの求めをイエス様に告げなさい。イエス様を見上げて喜びの声をワッハッハハとあげる時、私たちは不思議に悪い求め、快楽のための求めはしないものです。
 そして、不思議に聖なる油があなたに注がれます。聖なる光が注がれます。イエス様があなたの求めを清めてくださるからです。
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 ところで最後に、標題の「死んで生きる」に戻って書きたいことがあります。冒頭に書きましたペトロ・カスイ岐部神父の殉教のことです。ここには国家権力の手に捕縛され、死刑に処されて、無力そのものの姿に放置されているキリストの弟子の姿があります。この無力さを何と考えればよいのでしょうか。これこそイエス様のパッションの姿です。
 「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とのイエス様のお言葉に従う時、ここまで来るのか、と愕然とする人もあるかもしれません。
 このお言葉は次のように続きます。「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得になろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことが出来ようか」(マタイ16:25、26)と。
 ペトロ・カスイ岐部神父は最後には逆さ吊りどころか、ついには腹の上に薪を積み重ねられ、火をつけられて、おなかが裂けて内臓が外にあふれ出てくるような悲惨な死です。しかし、最後まで岐部神父様は信仰の言葉を吐きつつ天に召されて行きます。実に、「死んで生きる」壮絶な証しです。
 神父様は霊においてはニッコリお笑いになって天に帰られたことでしょう。これらの姿をイエス様に従う者の究極の姿と見定めて、イエス様に従って行きたいと、バスの中で私は願ったことです。篠先生のご講義に心から感謝します。次回の遺跡巡礼を期待しつつ。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-11-27 00:00 | 日岡だより
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