No.723 冬は根がはる時だ/手をにぎれ/地べたに書く 2015.11.22

冬は根がはる時だ

◇たいていの庭木の植替えは、冬にするようであります。冬は地表に出た姿では、成長のとまった、木によっては枯木のような格好ですらあります。
◇しかし、この時、地中では根が張っているのだそうであります。「神様、人生の患難の時、私共の心の根をはらせてください」(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


手をにぎれ

 今思えば、その人にとって、私は息子のように思えたのでありましょう。私は当時二十二才。
 「ヨシト!」
 と私の名を聞いたので、私はおどろいて扉の方を見た。扉は鉄の扉で、それは一日に七回ひらかれる。朝の点検、朝食、便器の取り替え、昼食、夕食、夜の点検、それに作業の素材、製品の出し入れ。その扉を魔法のように脱け出し、背の四倍程ある塀をのりこえ、社会にもどっていくのを、よく白昼夢のように想像したものだ。その扉のむこうに、私を呼ぶ声がする。その男は、北九州炭坑地帯の労務手配師かなんぞのような男で、四、五十才。私が前、あやまっておろされていた第三工場の「雑役」だった男である。彼は今、かわってこの北一舎、独居房の雑役になったのであろう。
 小さな監視窓から私を見つめているその人の目に、私はその人が誰であるか、すぐ認めた。
 「あ、ムラカミさん!」
 「ヨシト、手を出せ、手を出せ」
 私はせまい通気孔に手を入れた。むこうよりムラカミさんの厚い手のひらが来て、ぐっと握ってくれた。
 「ここはのう、余りに担当(看守)台に近うて、何も持って来てやれん。今度、正月にはみかんばいっぱい持って来てやる。さァ、ヨシト、手をにぎれ。元気出せ。死ぬなよ。お前のような良か人間がここで死ぬ事はない。コーリャン飯、うまくはないが、よくかんで食え。さァ、手をにぎれ、元気出せ」
 私は泣いた。
 
 その後、ムラカミさんに会うすべもない。筑豊地帯の川筋ものの喧嘩かバクチで刑務所に入ったのであろうか、精悍な顔つきの、あの囚人ムラカミさんの顔が忘られぬ。
 そのムラカミさんが手を握ってくれた部屋、北一舎六二号室。煉瓦づくりの冷たい部屋の中で、そうだ、昭和十九年十一月二十三日である。私はイエス様の御言葉にふれた。私はそこで、古い私に死に、新しいキリストの生命に生きる体験をしたので、まるで生き返った者のように元気になった。
「うれい多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」
 かつてムラカミさんの慰めに泣いた私は再び主の御あわれみに泣いた。私は神様の手を握ったのだ。
「わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は………」
 とパウロはコリント第二書七・5,6に書いている。
 いかなる時にも、うちしおれている者をなぐさめる神の御手をにぎる者は幸いである。
 「神さま、私の手をにぎって下さい」
(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
現代は経済的自立が非常におそい。独身貴族というて、収入はかなりあるらしいけれども、昔のように間借り一間にコンロで飯をたいておれば世帯がもてるというわけにいかず、電化製品やら、何やら、かにやらを求めていると、いつまでも世帯をもてず、他にもいろいろあるのでしょう、現代は非常な晩婚時代であります▲「できれば私のように独身でおるがよいが、胸の燃える思いのするよりは、誰かよい人を求めて結婚するがよい」とパウロは少々はしたない、けれどつまり物わかりのよい言葉を残しています。好きな人の前では、プラトニック・ラブというやつで、フェミニズムの権化となって性感の一かけらもおこらず、軽蔑する商売女の前で突如として性欲が激してくる、極端な例だが、こういう例も二十才前後の男性にはおこりやすい▲まして性刺激の文書図版が巷にあふれ、性欲を制御・転換・昇華させる途を一つも教えない現代の日本の世情が、警察官の女子大生暴行殺人事件の原因の最たるものです。性教育の最も必要なのは成人者です。「愛のコリーダ」がいかに芸術作品であっても、矢張りそれ以上の倫理的ブレーキがなければ公表はさけるべきです。
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-11-27 09:15 | 日岡だより
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