No.722 限りなき喜び 2015.11.15

限りなき喜び

 信仰生活より喜びが消えてしまったとき、それはあきらかに危険信号であります。もし、その人がはっきりと自分から信仰を捨てたのでなければ(ひとたび神様からとらえられた魂は、そうたやすくは信仰を捨てられるものではありませんが)、まず最初に点検すべきは、信仰生活の基本原則を守っているかどうか、ということであります。
 
 信仰生活の基本原則は
  (1)祈祷を常に
  (2)聖書をよむ
  (3)集会に出席
 の三カ条です。
 これは生れたばかりの、みどり子が、これから何を基礎に成長していくかという問に対して、
  (1)呼吸
  (2)食餌
  (3)保護
 と答えるのに似ています、祈祷は呼吸に似て理くつの上では最も大切なものであります。食餌は聖書に似て、これさえ与えておけば、大体生きていけるものであります。集会は、家庭的保育(保護)に匹敵するものでありまして、これさえあれば(1)呼吸(祈祷)も、(2)食餌(聖書)もおのずから手厚い保護の下に与えられ、その他、保温、おむつ、愛撫等身心共に必要な環境をあたえられます。集会出席こそ、事実上には最も大切な信仰成長の基礎であります。
 
 ところが、赤ん坊に対するような愛と保護がいつまでもつづきますと、ややに成長してくる幼い魂は、母親の過保護な愛をいとい、かえって欲求不満をおこします。信仰の幼児にもこれがおこります。
 これが、信仰成長の途中にしばしばおこる喜びの消失であります。
 単純な甘い甘い砂糖菓子がつづくと、自然に舌は、辛さ、にがさ、しぶさを求め、そこに一段上の次元のうまさを発見します、単調な甘さにはたえられなくなります。
 又、人間の欲望は拡大しますから、母親から与えられるだけの、菓子やおもちゃの喜びでは、次々に満足できなくなる。全世界をもらっても、欲の皮はたるまないので、現実もらえるものは、その欲深さに比して僅少ですから、不満はつのり、喜びは消えます。信仰の喜びも、もしその信仰が神様から何かをもらえるかしらと、期待ばかりの信仰ですと、いつか必ず欲求不満の時がきます。
 それは、神の供給に限界があるからではなく、人間の側の信仰が自立すべき成長期にきているからであります。
 子供は成長して外に出、甘い砂糖菓子よりも、森の中で小さな冒険をして、野蜜をなめたい時が訪れているのです。
 
 成人した人間は、与えられ保護されるのでなく、仕事を求めて、社会に奉仕し、家をささえるのであります。子供をうんで、これを育てるのであります。ここには、幼児期や青年期には想像もつかない苦労もありますが、又喜びもあります。この為に、まず人間は幼時より家事の手助けをし、家計を守る苦労の一端をなめるのがよいのであります。それと共に、友人をふやし、社会生活の訓練をつんで行きます。
 同様に、信仰の成人者は(あるいは成人への候補者は)、
 (1)教会や兄弟姉妹の為への、財力・労力の犠牲と奉仕をおしまぬ事
 (2)まだイエス様を知らぬ人々に、主の福音を伝えること、が必要であります。
 (1)は献金に象徴され、(2)は伝道であります。
 
 信仰の喜びは、しばしば突然与えられ、そして急に取り去られる、冬雲の下のつかの間の日ざしのような処があります。少なくとも、多くの人はそのように実感していはせぬかと思います。
 その人の信仰はすでに少年期を脱し、与えられ着せられるだけの喜びでなく、神さまの森に目的の岩穴を見出し、服も脱ぎ捨てて、そこに駆けより、危険な蜂の巣に近づいて喜びに胸をはずませる………そういう発見の喜びの時代に来ているのであります。
 日だまりを求める幼児や老人には、太陽のかげた雲の下は残酷でありますが、雪を求めて戸外にあそぶ少年には晴れも曇りも変りはない。恵みをただ与えられるものとして乞食のように待つものには、しばしば喜びの消える日もあるが、自ら犠牲を求め、十字架をおい、愛のわざを為し、御言を伝えるものには、喜びは日夜限りなく連続してわいてくるのであります。
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-11-19 21:51 | 日岡だより
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