No.718 クリスマスの瞑想/小さき者、貧しき心に/主よ、お住みください/地べたに書く 2015.10.18

クリスマスの瞑想
 
 クリスマスは、もちろんイエス・キリスト様の誕生をお祝いする日です。イエス様は、約二千年前ユダヤのベツレヘムという小さな町に生れました。どなたもご承知のように、両親のヨセフとマリヤは泊まるところがなくて、イエス様はついに馬小屋の中で生れ、そして飼葉おけの中にねかされたのでした。
 二千年も前の、ある人の誕生を祝うということは、そのメルヘン的な物語を単になつかしんでいるというような事よりは、もっと身近に現代の私たち(あなたをも含めて)に訴え、かつ干渉してくるものがあるからだと思います。
 かつて、ベツレヘムがユダヤという国の小さな町でありましたように、今私達も(そして失礼ですがあなたも)、多くの人々の中にあって小さい者であるかもしれませんが、この小さい者に、イエス様は今日も生れてくださるという事を私は信じるのであります。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)
 
 
小さき者、貧しき心に

 「恐るな小さき群よ、お前たちに天国を賜うのは天の父の御心である」
 とイエスは言われました。まことに、イエスは小さき者の内に宿ることをいとわれませんでした。そして、人が自ら小さき者であることを自覚することをお望みでした。神の国は、たかぶる者の国にあらず、へりくだりたる者の国であるのですから。
 故に、イエス様が飼葉おけの中に臥されたことは、意味のあることでした。他にもっとよい、乳児用のベッドか子守かごはなかったのでしょうか。しかし、不思議な摂理は、馬の餌を入れる(日本風に言えばフスマの匂いのしみついたような)、馬の歯のかみついたあとのある古びたおけをイエス様の人生第一日のベビーベッドとされたのでした。
 今日もなお、イエス様は私たちの(そしてあなたの)心の中の、最も卑しく貧しい場所に生れて下さると教えられるのであります。イエスは、偉大な人物の清い心に生れるのが当然だと思われます。しかし実際は小さき人物の、その汚れはてた卑しく貧しき心をこそ求めて、そこに下り住み給うのであります。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)
 
 
主よ、お住みください

 クリスマスは物語りでなく、今日の、私と、又あなたの現実の事件であります。
 今、まだ信者でない方も、耳をすまして下さい。あなたの心に、あのすばらしいイエス様がもし住んで下されば・・・と思いませんか。その思いこそ、すばらしい願いでありまして、美しいもの、聖いもの、正しいものを憧れる人間の尊い本能であります。
 どうか今、目に見えぬイエス様ですが、心の中にイエス様を描いて、「イエス様、私の心に移り住んで下さい」と言って下さい。あなたの心の、人にも神にも見せたくない最もきたない秘密の場所に「主よ、来て下さい」と、そこのドアをあけて下さい。
 この事こそ、信仰であります。信念という燃ゆるような確信がなくても、信じているという気分がなくても、この主を迎え入れるという心の態度こそ信仰であります。
 あなたの心の地図をひろげてください。その中の、飼葉おけともいうべき、きたならしい心の秘室に、イエス様を迎え入れなさい。口に出して「主よ、おはいり下さい」と言ってごらんなさい。
 主はあなたの心に移り住んで下さいます。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
「クリスマスは聖書と何の関係もない」と、今日の新聞(十二月二十三日)に投書が出ていました。この投書を書いているのは、文面から見てエホバの証人(ものみの塔)の人らしく見えました。この教派の人々はクリスマス行事を非難します。たしかに、前号のこの欄にも書きましたとおり、十二月二十五日がイエス誕生の日というのはあやまりであり、又かくべつイエス誕生の日を祝えという聖書の御言葉もないのであります。どうも、クリスマス行事は聖書の確実な教えよりも、「人の言い伝えに基づく」人間の習俗のようでありまして、そこに商業化・享楽化の胚胎する原因があるのかもしれません▲けれども、私はクリスマスは良き習慣であると思います。十二月二十五日を祝うのではなく、その日に主の降誕をいわうのであります。この日が格別に他の日より尊いのではありません。しかし、日を定めて人類が共に主の降誕を祝うのはすばらしき事であります。イギリスや北欧のクリスマスは特に厳粛で清楚だといいます。日本のクリスマス行事はアメリカ風の悪い面が出ているのでしょう。心したい事。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2015-10-21 22:30 | 日岡だより
<< No.719 「この年に目標を... No.717 イエス・キリスト... >>