No.713 「熱望して祈れ、信じて成功せよ」/イエスはなぜ死んだか 2015.9.13

「熱望して祈れ、信じて成功せよ」

◇人類の祖先(は決して猿ではありません)は他の生物にまして、異常に生き抜こうとする熱望がつよかったに違いない。そこで他の動物がこわがって近づかない火を手に入れて人類進歩の第一歩となった。
◇熱望すると火中に手を入れることができる。火中に栗を拾うのでなく、火中に金を発見することができるのである。
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)
 


イエスはなぜ死んだか

 「金も命も名もいらぬ。そういう人でなければ大事はできぬ」
 と大西郷は言ったそうです。そういう西郷さん自身でさえ、やや名望好みのところがあり、それが進路をあやまったのだと言う人もあります。なにせ、あの西郷さんの事であります。そういう少々の短所を聞いても少しも彼に対する敬愛の念のうすれぬのは不思議であります。
 ところでイエス様こそ、本当に「生命もいらぬ、名もいらぬ」人であったと思います。弟子にそむかれ、弟子にすてられ、素っ裸にされて、極悪人のように十字架上に処刑されるのですから、名誉も何もあったものではありません。
 ユダヤ人は古代ローマ人や昔の日本人のように、恥辱を死にまさる苦しみと考えていました。その恥辱に耐えてイエス様は十字架より墓へと死の旅路を行かれました。なぜ、日蓮大聖人のように死刑場の現場で神様の力で救われなかったのでしょうか。
 神様のお考えによれば、キリストは一度死んで地獄まで下り、死に打ち勝って復活し、その上で神のおそばにまで昇天しなければならない。そうでなければ、人間の罪も、その苦悩も病気も救う事ができない。この事が、聖書の最も大事な教え(第二コリント一五・3、4)なのであります。
 イエス様は死なねばならなかった。そして、事実私どもの自覚する罪、自覚しない生来の罪、生れながらの罪を背負って、一たび死んで下さったのであります。
 
 復活は、当初弟子たちにすら、愚かな話に思えました(ルカ二四・11)。アテネの人は、「死人のよみがえりのことを聞くとあざ笑い」、「いずれ聞く事にする」と帰っていったそうです(使徒一七・32)。パウロが彼の証しを長々と語っている間静かに聞いていたフェスト総督も、ことイエスの復活に及ぶと、たまりかねて叫びました、「パウロよ。お前は気が狂っている。博学がおまえを狂わせている」。思いもかけず、ここでパウロが当時名の知れた博学の人であった事も証明されますし、そして死人の復活などという奇蹟物語は、伝道上の障害にこそなれ、決して現代人のみならず、昔の人にも役には立たなかった事を示しています。
 
 遠藤周作という小説家は、「沈黙」とか「死海のほとり」とか「イエスの―――」とか、信仰小説を書いています。なかなか評判はいいようです。しかしあの人の信仰は現代人らしい、弱さに居すわって逆説的に信仰を告白するやり方です。人間の科学的常識や生活上の矛盾に体ごとぶっつかろうとせず、早目に手をあげると、ああいう風になります(日本の宗教で言えば、シンラン風な行き方、戦争中より無的弁証法というやつで皇国主義的圧迫に対する言い逃れを覚えてきた日本のインテリはこれがうまいのです。そして、それが決して全然あやまりではない、尊い真理がある処に妙味はあるのです)。
 その遠藤氏ですら、ペンテコステの聖霊経験以後のペテロたちのみごとな変身ぶりは説明のしようがないと言っています。
 あのおっちょこちょいで、臆病もののペテロが、聖霊経験以後、大胆不敵、すばらしい弁論(説教)、一群をひきいる組織力と権威を兼ねあわせてもちました。パリサイ人達は、いくら目をこすって見ても、彼が無学な只人である事を認めざるを得ませんでした(使徒四・13)。
 なぜでしょう、復活のイエスが約束通り、その聖霊を天より彼らにお送り下さったからです。十字架の死は復活の為、復活は昇天の為、昇天は聖霊をお下しになる為です。この聖霊の働きを知らないと、イエス様の理解が遠藤周作流におわり、信仰は生活をかえず、只々、おのが才能にたよるのみになります。
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-09-17 10:22 | 日岡だより
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