No.709 御言葉を心におさめよ/試練三原則 2015.8.16

御言葉を心におさめよ
 
 聖書はあやまり無き、天の父なる神様の御言葉です。この言葉には生命がありますから、心の畑に埋めこんでおきますと、知らぬ間に大変な成長をして、三十倍、六十倍、百倍の実(品性、豊かさ、健康)をみのらせます。
 日本の昔からある掛軸や、壁につるした色紙のように、聖句を書いて、日夜吟唱するのはよい事ですね。又、手帖の片すみや、腕時計や、コンパクトの裏に聖句を書き込んでおいて、日常生活の合間に神様の言葉にふれておる事は、大きい祝福をあなたに呼びこみます。申命記一一・18~21を参照しましょう。

それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。

 あなたの生命の日数も長かれ!
 (1977.8.21週報「キリストの福音」より)
 

試練三原則
 
 患難は決してうれしいことではありません。それに遭えば一刻も早く去ってほしいイヤな事であります。しかし、この世の中で、一度も患難にあった事のないような人を想像することは出来ません。又もしそのような人があったとしたら、多分はなもちならぬ高慢な人か、又はフヌケのような頼りにならぬ人でしょう。
 私たちが多少でも、人に同情をよせ、自分に反省することの出来るのは、私達が患難を経験するからであります。
 
 患難はしばしば自分の愚かさや過ち、罪より来るものであります。それは十分に反省を要します。
 しかし又、人の害意、敵(サタン)の攻撃による事もあります。何のかかわりもない筈の暴力団よりインネンをつけられる事もあります。
 このような患難に対しては、クリスチャンは勝ち得て余りあるイエスの力を頂戴しましょう。
 
 患難は、神の子にとり父なる神様よりの尊い訓練であります。たとえ、その患難が私たちの罪の行為の結果であったとしても、それは決して罰ではなく、矯正の為の訓練であります。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。もしあるとすれば、その人はかくし子である、と聖書は言うのであります。(ヘブル書一二・5~11)
 
 患難にあった時の注意を聖書はこう告げています。(ペテロ一書四・12~13、ヤコブ書一・2~4)
 (1) その試練を何か思いがけない事が来たかのようにおどろいてはいけない。あわててはいけない。ろうばいは悪魔に対する敗北のしるしになる。「やッ、覚悟していたものが来たな」と、英雄的精神をふるいおこしなさい。火事場に行く消防夫は、火の粉よりさけられない。
 (2) 試練をかえって喜びとしなさい。敵に追われて走る敗走兵にとりランニングは苦痛であるが、寒風をついてランニングの練習をするマラソン選手にとっては、その苦痛が喜びであります。
 それは、おのが苦痛に意義を見出しているからであります。患難には、主イエス様の御苦しみと天と地の開きはあっても、平行的に似た処があって、肉において苦しむ事は、それによって罪よりのがれ、おのれを鍛錬し、成長し、人の罪をさえ負う事すらあるのである。そのような、尊い意義に目ざめよう。
 (3) とは言え、矢張り試練はつらい。喜ばしいとは見えない。その時必要なのは忍耐である。忍耐は練達をうむ(練達は耐えるコツであり、試練を喜ぶ技術である(ロマ書五・3~4)。
 
 あなたが最大に喜び、意気揚々としている時、注意しなさい、悪魔にほえたけるライオンのように、喰いつくそうとして我らのまわりにうろついている(ペテロ一書五・8)。先週、阿蘇聖会で、大いに喜びました。こういう大盛事のあと、えてしてサタンは私達を攻撃して来ます。
 目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい(コリント一書一六・13)
 (1977.8.28週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-08-21 08:19 | 日岡だより
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