No.708 神はないという人とあるという人と 2015.8.9

神はないという人とあるという人と 
 
 神はないという人が多い。神様は見えないのだから無理もありません。然し、見えないでも信じているものは、実はたくさんあります。月の裏がわを見た事はないが、アポロ宇宙船の報告を信じています。エネルギーというのは、何のことやら良くわからんが、物理の先生の言うことは信じています。私の両親がこの父母であるという証拠は余りない(顔が似ている、血液型に矛盾はない、長い間いっしょに生活しているというだけだ)が、父母を信じている。第一、私の「心」というものは一切見えないが、私の「心」、この「私自身」を信じている。
 
 神は無い、と言う人は、大別して次の三つに分けて考えられます。
 (1) 第一の型は、心霊的なことに全く無関心で、そんな事はどうでもよい、と思っている人々です。こういう人達のことを、「愚かな者は神は無いと言う」と聖書は指摘しています。神はいないという人は、たとえその人が大学の教授であっても愚かな人なのであります。
 (2) 次のグループは、人生に絶望し、自分に悲観して、「神はどこにいますか」となげいている人達です。ちょうど、人ごみの中で母を見失って泣いている幼児のように、神様を見失っているのです。「おまえの神はどこにいるか」とあざ笑う悪魔の声にまどわされず、今いかなる絶望の避地にあろうとも、そこより神を見い出し、神に帰るべきです。(詩篇四二)
 (3) 第三は、おごりたかぶって、現在の自分の成功繁栄を誇って、神などいるものか、と言っている人達です。彼らは、神などいない方が都合がよいのです。時おりもたげてくる良心を眠らせる為には、神などあってはじゃまなのです。ナポレオンはセントヘレナに流されるまでキリストの事を語りませんでした。毛沢東は死ぬ少し前に、「私は神に会う準備をせねばならぬ」と言いました。聖書は「悪魔も神を信じてわなないた」と言います。神を有ると知っているのに無い事にして生きているわけです。
 
 神はある、と言う人々にも、また大別して三つの型があります。
 (1) 第一の型。知的に神はあると認めていますが、その事に、無感動ですし、生活に何の影響も与えません。神はないという型の第一の愚かな人々と、それ程大差ないのであります。
 (2) 第二は、神を恐怖する型。宗教儀式やお札(ふだ)やおさい銭で、神様をまつり上げ封じ込むのです。建築の際のこんじん除け、車のお守り札、みなそうです。これが、高等宗教になると、道徳、倫理で人間生活をかたくしばり上げて、神様の前にきよく正しく生きようと、キリスト教で言う律法主義、倫理的厳酷主義に陥ります。
 (3) 第三は、愛の神を信じ、愛の神と共に生きる、生きる喜びを知っている神体験です。このように、我が内に生きている神を知るまでは、本当の「神はある」と言う人ではないのであります。
 神は無いと言う人に言います。
 神様は断じています。神様は生きています。
 神様がいないと言うのは、あなたの中の胃が
 「おれは生きている。おれは自然に生れ、ここにあり、そして生きている。おれの主人である何某(あなたの事です)などあるものか」
 と言うのにひとしい事です。
 あなたがご自身を「我」と自覚しているような精神の次元は、物質の次元ではありません。その次元が肉体生理におよぼす影響は表情や言葉や脳波で検討できましょうが、その根源は神秘です。そのような深い、且つ高度の次元の「あなた」は、本当は神は無いなどと言わぬ筈です。へりくだって、冷静になれば、誰でも「神はいる」というのが当然の事なのであります。
 (1977.7.31週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-08-12 10:12 | 日岡だより
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