No.707 家庭礼拝のすすめ/自在な体操、自在な歌、自在な信仰。 2015.8.2

家庭礼拝のすすめ 
 
 五月二十七日(金)、中野家で家庭礼拝を持った。十人に満たぬ少人数ではあったが、賛美と祈祷とメッセージと聖句のコールの嵐が室内にふきまくるようなすばらしい集会であった。当教会における家庭集会の第一回であるが、第一番手として中野兄と同高代姉が家庭を開放する事を決心されたことを、大いにたたえたい。気質としては内気で遠慮ぶかい二人であるから、あるいは清水の舞台からとびおりるような決心であったかもしれないがようこその決心をして下さった。
 初代の教会には、会堂はなかった。各々信者の家庭で集会をひらき、そこを「××家の教会」と称したのである。今でも、信仰の迫害をうけている共産圏国家の地下教会の多くは「家の教会」である。家の教会は、見すぼらしいかしれないが、迫害などに抗して絶対崩れない信仰のとりでである。最近、ある人の本では、教会の礼拝よりも家庭礼拝を大切だという意見があった、少々行きすぎた意見ではあるが、意味はふかい。
 家庭礼拝は教会の軍隊の前線に似ている。各家庭が祈りの細胞としてガッチリ守ってくれていれば、本陣の教会は大いに安全である。家庭を開放して、もよりの信者さん方を集めて拡大家庭礼拝をもつ時、その家の敷居の下から屋根組みのすみずみまで、神の霊気がしみわたる。そういう家庭には必ず神の祝福が来る。そして又、参加させてもらった信者各位も教会の会堂礼拝とはちがった、生活のにおいのする信仰に燃える。
 四国の三島真光教会の牧師金田福一先生は三十年前平信徒として、貧乏と病気のドン底にあった時、一家そろって聖書輪読と賛美と祈りの家庭礼拝をはじめた、これが先生一家の奇跡的「貧乏と病気」脱出の原因であったと、先生は証ししていられる。
 私は、少年時、母と二人ぐらしの淋しい家庭であったが、小学校四年生頃より、毎朝、食前に新約聖書を一章読んでお祈りをした。詩篇も読んだので、一冊あげるのに一年半かかるが、十七才で社会に出るまで五回ぐらいは通読したことになる。私が、二十二才の時、刑務所の中で、そばに聖書がない時でも、御言葉により養われ得たのは、母と共に八年間読み通した聖書の記憶があったからである。
 生活をきよめ、栄光ある人生を送る事は、容易でないように思われてる。もちろん、容易であるとも言いがたいが、しかし、家庭にまず神礼拝と賛美と祈りのある時、それはすべての人に可能の事となるのである
 (1977.6.5週報「キリストの福音」より)


 
自在な体操、自在な歌、自在な信仰。
 
 野口体操という不思議な体操がある。
 その本が最近出た。「からだに貞く」(柏樹社刊)という。
 この四月から大分市のクリスチャンの有志が三十人程集って、合唱の練習をしている。その際、首、肩、腰と、力を抜いていく体操がある。どうも、野口体操に似ているなあ、と思って聞いてみた。おどろいた。この野口体操の創始者野口三千三氏は、この合唱団の先生の母校・東京芸大における恩師であられた。なる程、・・・・
 ある人に、この脱力体操の初歩コースを教えたら、早速肩のこりがなおってしまった。
 二十年程前、受売りで指導していた「ランドーンの健康法」や、イスラム教の一派の「練習」にも、これに似た芽生えがあった。
 ランドーン方式は、広い道場にただ一人いる。ただ一人で自由に動く、立つも坐るも、駆けるもころぶも、そしてじっとしておるも自由である。内なる「心」が澄んでくるまで待つ。そして体が自然にほどけるままに運動する、というのであった。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」(ヨハネ一四、5)とイエスは言われる。枝の受ける栄養や、信号は幹を通ってくる。クリスチャンの受ける霊的栄養や信号は、内なるキリストより来る。耳や目を通して入ってくる御言を、魂にその真意を悟らせ思い出させてくれるのは、内在する聖霊である。それを内なる声と呼ぼう。内なる声をきくこと、これはクリスチャンの成熟の為に大切な課程である。
 今、当教会で、自由さんびの時間を設けている。自由なメロディー、自由な和声とリズム、自由なことばで会衆一同歌う。発声器官が緊張をほぐされ、のびやかな声で、神への賛美がうたわれる。正しく「霊の歌」(エペソ五・18)であって、初代教会の聖歌の発生期はこういうものであったろうと思われる。
 先日、来席された立木稠子さん(前記合唱団の主任講師、声楽家)が、この自由さんびをお聞きになって、「すばらしい。オペラのような声がでますねえ。録音しておきたかったですよ」と賛嘆された。一流の方に認めてもらえて、大変うれしかったのである。
 内なる声をきいて、そのままに歌う。同様に、内なる動きを貞いてそのままに体操する(これが野口体操の根本でしょうか)。そして内なるキリストの言をきいて、そのままに告白し生きる、これが信仰なのである。(1977.7.3週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-08-06 08:16 | 日岡だより
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