No.202 天にある霊者たちを偲ぶ 2005.11.13

天にある霊者たちを偲ぶ

 私の作った賛美がある。しろうとの下手な作詞作曲だから、我ながら「よくやるよ」と呆れているが、当教会でも滅多に歌わない。先だって中野渡先生がお見えになった時には、この賛美で一同輪になって歌ったが、気分が高調して先生からも誉めて頂いた。望外の誉れである。
 歌詞は「火の車に乗って天にまで上ろう。エリヤのごとくに天にまで上ろう」という歌い出しであるが、数年前、エリヤの昇天の箇所をテキストにして説教をしようとしたことがあって、聖歌や賛美歌の中にエリヤの昇天のことを歌った歌詞があるかどうかと捜したのだが、一向に無い。止むをえず、簡単すぎて不首尾な歌詞と曲だが、礼拝の前日に作ったかと思う。それはとにかく、
 先週の主日礼拝は在天者祈念礼拝であった。また午後には別府の奥にある教会墓地に出かけて墓前礼拝の予定。この日は、朝から激しい雨、ちょっと心配であった。しかし午前の礼拝に浸っていると、この気分は一掃された。先に天に帰られた諸先輩がたへの敬慕の念が鬱勃(うつぼつ)と起ってきた、私は自分を抑えきれなくなった。私たち全員、天に上りたかった。よほど前記の賛美を歌いたかったのだが、この日は聖餐式、誕生者祝福式等があって時間も足りない。我慢して説教をつづけた。d0065232_23415961.jpg
 私は何度か未信者の方の葬儀を、信徒である近親者から熱心に乞われてキリスト教式に葬儀をしてあげたことがある。そうした弟さんや甥御さん方の遺影も飾られている。その祭壇めいたものを脇に見ながら、私は火の車に乗って天国のきざはしに行って背伸びでもして、それらの方々を見上げたかったのである。
 こんなこともあった。故林正貴兄のお姉さんが召された時、林正貴兄がお姉さんの死の直前にイエス様の救いの導きをしましたというので、私はその葬儀のなかで(会葬者のいる前で)、棺を開けて「死人のためのバプテスマ」をしてあげた。私がまだ30歳前のしろうと伝道者だった頃だ。多くの教職の方々からは非難されても仕方のない仕儀であったかと思うが、私は一所懸命祈ってやったことなのである。
 これらはセカンドチャンス(未信者の死後の救い)という際どい神学論争にもなるところだが、私は神学にはうとい。ただ召された人を尊び、その人を地上から失う嘆きの中にも、彼らを天に送りたいと切に願っている遺族、信徒たちの信仰と熱意に答えたいままに、私はバプテスマを執行したのであった。
 そうしたことを走馬灯のように思い出しながら、私は講壇で説教を語ったのです。私は切に、「火の車に乗って天にまで上ろう。エリヤのごとくに天にまで上ろう」と歌いたかった。
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 私はいかなる説教の時も「十字架の上で死に給い、陰府に下って、3日に復活されたイエス様」のことを語らずにはいられない。これはキリスト信仰の土台です。聖潔も聖霊充満も後回しでよい、まず十字架と復活の真理を語りたい。この信仰さえしっかりしておけば、その後の信仰は順調に成長します。
 それはともかく、イエス様は一旦陰府に下った時、そこで「福音を宣べられた」とある。第一ペテロ3:19、20と同4:6のみ言葉を参照して下さい。そしてエペソ4:8~10を読みますと。陰府に居た霊たちのなかでイエス様の福音を聞いて救われた人たちがイエス様に連れられて天に上ったらしいことが分かります。このイエス様の福音の言葉は今も陰府のなかで余韻のごとく残り、あるいは天使級に成長された信徒諸兄姉の伝道により、多くの霊者たちが救われているに違いないと私は信じているのです。
 実は、死んで陰府に行っているはずの不信仰者のために祈ることは、欧米の教会では禁じられているようですが、私はその欧米流信条は承知できません。死者のために取り成しの祈りをすることは善いことであると信じて居ます。
 なお、十字架上で、隣りの十字架にかけられていた犯罪人から「イエス様、あなたが御国の権威をもってお出でになる時には、私を思いだして下さい」と乞われた時、イエス様は答えました。「よく言っておく。あなたは今日、私といっしょにパラダイスにいるであろう。」
 私の推測ですが、イエス様が十字架の上で死なれた時、一緒に死んだ隣りのこの犯罪人たる男をお連れして行ったのであろう、行った先は陰府である。その陰府で先に述べたように主は福音を語られた。そして救われた人々のなかに、この連れられてきた犯罪人も居たはずである。そして彼らを引き連れてアブラハムの居る陰府「慰めの場所」(ルカ16:25参照)におもむかれた筈だ。そこから、先に引用したエペソ4:8~10にあるとおりアブラハムをはじめ旧約の聖徒たち、また今イエス様により救われたばかりの新入りたちを引き連れて、天に帰って行かれたと私は信じるのです。そこが天のパラダイス、のちにパウロも上ったところです(第二コリント12:4参照)。
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 こうした多くの先生方からは危ぶまれそうな説教をした礼拝のあと午後、別府後背地の山辺にある別府霊園をたずねます。実は朝からの激しい雨、そして途中の山間部にはいってからは10メートル先が見えないような濃霧、そのなかを用心しつつ車を走らせながら、目的地に着き、私たちの教会の墓のあるところに行きますと、突然雨が止み、雲が晴れ、太陽の光が墓にそそぎ始めたのです。一同歓呼の声をあげましたね。
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 そこで私たちは賛美歌を斉唱、そして私の墓前説教が始まるのです。テキストは第一テサロニケ4:13~18です。そこでパウロは「死んでいる人々について無知でいてもらいたくない。無用に悲しまないように」と言い、そして主イエス様が再臨なさるときの情景を目に見えるように語ってくれます。「主は天から下ってこられる。先に天に召されていた人々が先に最初によみがえり、次に私たち地上に残っていた者たちが共に雲につつまれてイエス様のもとに引き上げられるのだよ」と言うのです。

 この主のご再臨のことを拝読しながら、私は世の終わりを想像せずにはおられませんでした。そして、私は思わず次頁に掲げた「機械文明の暴発」の恐れについて語りはじめたのです。もともと、文明というものは善い事のように考えられてきました。西洋においても、明治以来の日本においては特に。しかし文明というものは人間に便利さを満たすだけで、それ以上のものではありません。その点、文化はいささか価値があります。文明は人間の基本価値のためには何の役にもたちません。却って文明は人間の特性をむしばむことが多いのです。
 最近のIT産業による情報革命は情報爆発を起して、ホリエモンさんなどによる経済混乱はともかく、もっとひどい特に若年層の精神構造の破綻を来たらしめ、社会暴発を起すのではないかと、私はかねて心配していました。
 そこへ次頁に紹介した立花隆さんの「サイボーグ技術が人類を変える」です。こうしたことに関連して私は「フォトンベルトの危機」というニューエイジの人たちが言い出していた2012年の地球の危機が必ずくる、天文学上それがきちんと計算され、予告されているという問題も思い出したのです。いわゆるニューエイジの人たちが言いだした妄言だよと、聞き捨てにしてはおけない危機感を受けるのです。しかし、
 「主は近い!」、私たちクリスチャンは何をも恐れない。「主が来られる!」、賛美し、歓呼をあげて主を迎えましょう。地球が崩壊しても、神の国は私たちを待って下さっている。愛と喜びと平安と希望と主への熱情で如何なる心配をも乗り越え、主の日を迎える事が出来るのです。《く》


機械文明暴発の悪夢

 先々週土曜日、11月5日の夜のNHKテレビ総合番組9時からのNHKスペシャルは大変な内容だった。恐るべき接近未来を映し出していたと思う。
 立花隆氏の最前線の新科学の研究成果をあげていたのだが、題して「サイボーグ技術が人類を変える」、神経工学の先端だという。脳細胞に電極をつけるというような手術のお陰で、心で思うだけで手や足が的確に動いてくれるというのである。それどころか、見えなかった目が見えだした、聞こえなかった耳も聞こえだしたというような報告もあったと思う。
 「あったと思う」というような曖昧な文章を書いた所以は、私はびっくりしてしまって、この番組を見たあと、いささか動転して心が整理できなかったのである。
 兵隊にこの装置をつけると、強力な装備をつけた人間ロボットが出来る。命令のままにどんな危険な場所にも飛んで行ける。もっと進歩すると、これは私の空想なのだが、指令官が指揮命令を心に起すだけで、前線の軍事装置が働くことも出来よう。こういう兵器が出来てくると黙示録に預言されている終末的様相が出現しそうで、私は身の毛もよだったのである。かつてのヒットラーが聞いたら狂喜するような軍事装備が生まれてくるに違いない。
 その上、脳の快感部門に電極をつければ「愉快でたまらぬ」人間を作ることもできそうである。私の「ワッハッハ理論」は吹っ飛んでしまう。この最新の神経工学の作った機械はまさに機械文明暴発、人類自殺の装置になりはしないか。そんな悪夢を見たように思えた。《く》

〔あとがき〕
前々号200号の第1頁に書いた「日本が独立国と想うのは仮想現実である」の一文を早速、証明してくれる記事が堂々と新聞に出た。産経新聞11月8日号、石原慎太郎氏の「内政への干渉を排せ」という論文である。そのネタは関岡英之氏の「拒否できない日本」、文春新書で出ている。▼読むと驚いてしまうのは日本に対するアメリカの支配意図。日本政府に対して毎年送られてくる「年次改革要望書」というものが有るそうだが、これによって、日本の経済力を圧縮し、アメリカの利益を増やそうとするわけだが、これについて日本政府は全く口を閉ざしている。▼ひるがえって私たちの魂を見よう。私たちは如何にサタンから私たちの霊的財産、当然神様から受けるべき財産を奪われていることか、イエス様の福音力によって、このサタンに奪われたものを奪還しよう。▼心のむなしさ、不安、肉体の病い、家族の不一致、人間関係、財政的貧しさ、そうした様々な面で、しばしばクリスチャンが悩んでいるが、すべてサタンに奪われているのだ。イエス様の御力によって、これをサタンに投げ返そう。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-11-13 00:00 | 日岡だより
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