No.703 神の国をつくり出す人/石も叫ばん 2015.7.5

神の国をつくり出す人
 
 古い自我を否定するということは、
 新しい我を肯定するということです。
 
 新しい我を肯定する人は、
 来たるべき新しい世界を信じるのです。
 
 その人は、信仰によって生れた新しい我
 信仰によって生れた新しい我を
 絶対肯定して
 大胆不敵に生きるのです。
 
 神の国を待望しつつ…………
 神の国をつくり出すのです。
 (1977.8.14週報「キリストの福音」より)
 
 
説教抄録
  「石も叫ばん」
 
(四月三日、ルカ伝十九章28~40による礼拝説教)
教会暦によると、四月三日は、しゅろの聖日、イエス様のエルサレム入城の日です。この日を記念して、ちょうどその箇所をテキストに取り上げました。
〔28節〕ご苦難と十字架の待っているエルサレムにむけて、イエス様は先頭に立って行かれる。私たち人生の旅において、いかなる苦難多き道であっても、主の先立ち行き給う道を行きたいものである。
〔29節〕もしその先頭の主より先に弟子をつかわし給う時には、そこに既に主の先見の目が行き届いている事に注意したい。そして弟子たちの為すべき業は、すでに準備されている事に安んじたい。
〔30節〕まだ誰も乗った事のないロバの子。労働に供されず、世の塵にそまず、然しつながれて保護し束縛の中にあるロバの子は、この度卒業して就職していくM君などに似ているね。いよいよ解かれた社会に出るわけだが、誰の用にあたるか、そこが問題。せっかく杭から解かれたが、金や世間の悪習に再びつながれてはならぬ。
〔31節〕誰の用に用いられるのか、主の用にあたるのである。どんな小さい仕事でも主の御用と思って忠実に果たそう。
〔32節〕本当に人生を見ると、「果してそのとおりであった」と、聖書を見直すような事ばかりである。特に、最近の世界の終末的様相には……。
〔33節〕ロバの子の持ち主は、おどろいた事であろう。突然二人の者が来て無断で、そのロバの子を連れて行こうとするのであるから。時折、人は健康や富や地位を神様に持って行かれそうになってあわてる。その時、この持ち主たちのようにおとなしく承知するかどうか。
〔34節〕弟子たちは、いろいろと言い訳をしなかった。イエス様の言われた通り(マルコ十一・6)に、「主がお入り用なのです」と、簡潔なる返事をした。これは、時に誤解を生みそうな時の、主の弟子の用うべき返事の模範である。主の言われた通りに言う――、これは伝道トークス(話法)の基本ではなかろうか。
〔35節〕この時の仔ロバの得意を思うべし。彼は値打ちなき小さき愚かなるロバである。(西洋ではロバは愚かさの代名詞)ただ、ただ、上にお乗せしているイエス様の故に尊ばれたのである。主の用にあたるものの有難さを思う。
〔36節〕上着を道にしくのは、王をむかえる態度である。王というにしては、乗る馬のみすぼらしさよ!
〔37・38節〕しかし、弟子達は無邪気に喜んだ。これでもう我が天下来たれりと、本当に王様をむかえる気持で喜んだのであろうか。私は思う、この時、不思議な霊的感動がおこったのであろう。われしらず、内よりこみあげる喜びに賛美の叫びをあげたのであろう。聖霊の迫りである。
〔39節〕純真な信徒の霊的叫びは、いつも職業宗教家の批難をあびる。異言・霊唱が冷眼視されるのもこれに似る。
〔40節〕この弟子達を弁護されるのはイエス様である。真に、口の重い私ですらが、かくも主を賛美するのであれば、もし私が黙れば、あの沈黙の石が叫ぶであろう。然り、石のごとき私すら今かくもハレルヤと声高く叫ぶのであるから。
〔附記〕このロバの子を私達の「心」に例えてみたらどうだろう。「心」を解く者は誰か。「心」を解いて誰につかえさせるか。あやまった類似宗教や集団に「心」をうばわれるな。
 (1977.4.10週報より)

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by hioka-wahaha | 2015-07-09 09:06 | 日岡だより
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