No.692 祝福をうけよ/心の王座/桜美林のうた 2015.4.19

祝福をうけよ
 
 「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国は
  その人のものなり。」(マタイ五・3)
 右の聖句は、いわゆる山上の垂訓といわれるイエス様の説教の冒頭の一句。文語訳であげましたが、世間でも有名な言葉ですね。
 少し僭越ですが、私なりにもっと原意に忠実でありたいと願って訳しなおしてみました。
 「祝福されたる霊の貧窮者たちよ。
  彼らの所有は諸天の王国である。」
 貧窮とはつらい事であります。何も無い事であります。人間の一番かんじんかなめの霊において貧窮という事は救いようのない事であります。「ぼろは着てても、心のにしき」というように、人間は外っ面(つら)はどうでも内面は豊かでありたいものであります。その内面が貧窮ではどうしようもありません。
 しかし、大事な事は、このどうしようもない貧窮者を、イエスは「祝福」して下さるという事です。
 イエスが祝福なさった時、五つのパンと二匹の魚は、五千人分の食糧に増殖されました。イエスが祝福なさった時、エマオ途上の二人の目はひらけました。イエスの祝福は、無にひとしいものを、大なるものとして変化せしめるのであります。
 人間は、神様の前に出ると、自分がいかに無にひとしい貧窮者かが分ります。骨身にしみて分ります。その時、この祝福の御言葉をきくと、天国にある私に目ざめます。何も持たぬ筈の私の中に、諸天の王国がある事が分ります。
 (イエス様の祝福がなければ、人間は義のために責められた時、天国どころか怨念の地獄におちざるを得ない、という恐ろしい事にもなります。)(1976.9.12「キリストの福音」より)


心の王座
 
 教会学校で歌う、こどもの「聖歌」に
  「まことの神さま、ただひとり
   みなさん、早く信じましょう」
 というのがあります。昔から、一部の教会にはよく歌われた歌です。私の育った教会は上品な教会で、こういうスローガンをむきだしにしたような、むくつけき歌は使いませんでした。そこで、私もそういう育ちによるのか、この歌にちょっと抵抗を感じていました。けれど、今こっそり歌ってみると、ずばり信仰の中心テーマを率直に歌っていて、いいなァと思います。
 日本人の考えている神は、八百万の神々、狐も蛇もみんな神様。こういう神様群拠のさなかに、キリスト教の目に見えぬ唯一の神が伝えられてきても、日本人の頭にはなかなかなじめぬわけです。
 人間の心には、その奥の方に一つの王座があります。この王座に何かを据えてたてまつっておかないと、バランスのくずれる本性があります。偶像や、お金や、人気や、人の愛や、地位―――、そういうものを王座にすえて、やっとバランスを保っています。しかし、本当は「人は神につくられたので、神に帰らなければ平和を得ない」(アウグスチヌス)のであります。
 あるユダヤ人の学者が「ユダヤ人に偉い学者がたくさん出るのは子供の時から、目に見えぬ唯一の神、真実の神について教えられて目に見えぬ真理に思いをこらす習慣がついているからだと思う」などと言っていますが、なる程そうかもしれません。物をはなれて、目に見えぬ存在を、永遠や無限を想う精神は将来のすぐれた人物を生み出すのであります。
 それはともあれ、あなたの心の王座に今神様をお迎えしていますか。神様以外のものは、必ずあなたを失望させあなたの人格を破壊しますぞ。(釘宮)
(1976.9.12「キリストの福音」より)


桜美林のうた
 
 私は、戦時中北京の聖者と謳われた清水安三氏の本が好きだった。彼は崇貞学園という学校をつくるのに、その敷地としてほしい地面に棒のようなもので線をひき、
 「神様、この土地を下さい」
 と祈った由。
 この痛快無類な男、戦後引揚げて来て、東京の近郊に貧乏な学校をつくった。この学校が、今夏、全国高校野球で優勝した桜美林高校である。
 甲子園で五回も歌われた、その校歌
 「・・・・・・
  もろ手をあげて
  イエス、イエス、イエスと
  イエス、イエス、イエスと
  叫ぼうよ」
 この歌がテレビやラジオで全国に流れた。死に至るまでイエス様に忠実な清水安三先生の作詞である。
(1976.9.12「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2015-04-23 20:39 | 日岡だより
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