No.686 口に言いあらわして救われる/きかれる祈り/子どものしつけ方教室(7) 「親子でプールに入ろう」 2015.3.8

口に言いあらわして救われる
 
 信仰とは、神への御言葉への応答(レスポンス)である。
 「あなたは右の道をとりなさい」
 と御言葉をきいたら、右の道に歩をむけるべきである。
 「あなたの怒りっぽい性格は変えられる」
 と御言葉をきいたら、
 「はいッ、私の怒りっぽい性格は変えられます。柔和な人間にかえられます」
 と、言葉で応答しなさい。
 ローマ書一〇・10を聞きましょう、いわく
 「人は心に信じて義とせられ、口に言いあらわして救われる」
 ここで言う「救い」とは、多分に聖潔論的である。聖潔論とは、キリスト教界ではやっかいな論題である。しかし、議論はともかく体験的に言うと、霊感的ムードとか、天使的高揚とか、宗教的英雄主義ないし天才主義(?)は排して、ごく現実的に言うと「聖潔とは聖書の言葉どおりの生活」である。そういう生活は、具体的には、事毎に神の要求が肉体的表現にまで実を結んでいる、「救いの証し」である。
 そんな大変な事、どうして人間にできましょう、と尻ごみする人も多いだろう。しかし、天の父の全きがごとく全くあれ! というのがイエスの教えである。人間にはできそうもないが、人間にできないことを、為しとげらるのが神様である。
 大胆に、神の仰せられる約束の言葉に、信仰を以て応答しなさい。大胆に、確固とした言葉で告白しなさい。告白とは「同じ事を言う」という事です。神の言葉を復唱するんです。言葉は霊です。霊は力です。言葉は必ず、あなたに具体的に実現します。
(1976.7.25「キリストの福音」より)


きかれる祈り
 
 「ただ、お言葉を下さい。」(マタイ八・8……イエスに願った百人隊長の言葉)
 「しかし、お言葉にしたがって……」(ルカ五・5……ペテロの返事)
 何でも祈れば、すべて聞かれる。そう言って信者さんを集める宗教があります。キリスト教は、まず人間の良心を正しくきよめる宗教でありまして、道に外れた求めや、品性をけがす願いには、断じて応じる筈もありません。
 しかし、信仰の道は理性をこえた、神秘な神様の答えを得る道でもあります。人間が誠と熱意と確信をもって願い求めるなら、必ずきかれるのであります。
 そして、聞かれる祈りの秘訣は冒頭の聖句であります。既に得たりと信じて祈る、御名によりて祈る、そういう御言葉はよく知られていますが、更に一つ、御心にかなう祈り、つまり御言葉を頂く祈り、これが大切です。
(1976.7.25「キリストの福音」より)
 
 
子どものしつけ方教室(7)
親子でプールに入ろう
 
 父たちよ。子供をおこらせるな。そうではなくて、主の訓練と訓戒の中で彼らを育てるのだ。(エペソ六・4私訳)
 最近の子供は特にそのようですが、親の前で、ふくれたりおこったりする事が多いものです。親はハレものにでもさわるようにして、甘やかして育てます。すると、子供というものはますます甘えて、ちょっとした事にも腹をたてたり、すねたりするようになります。親はいっそうオロオロして子供のごきげんをとる、悪循環です。子供をおこらせてはなりませんが、かといって甘やかせという事ではありません。
 水に泳げない金づちのお母さんがいるとします。そういうお母さんは、プールに行って子供と一緒に練習したらどうでしょう。
 「とんでもない。そんなみっともない事、今さらできますか。子供についていって、私は上からいつもはげましているんです。ママはここにいるよって―――」
 こういう人を、プールサイド・ママと言うのです。自分は水の中に入らないで、文句ばかり言えば、子供もふくれっ面をするのは当然です。自分も一緒に水の中に入って、顔を水につけ、バタ足の練習でもして
 「あっ、そこのお母さん、ダメダメ。もっと頭を沈めて………」
 とか何とかコーチに叱られていると、子供もいっしょに笑いながら、一生懸命水泳の練習をする事でしょう。
 イスラエル人は、エジプト脱出後、荒野の中で親子共々、苦しい旅や戦争に従い、「主の訓練と訓戒」をうけて四十年すごしました。そして、親は荒野で死に、立派に成長した子供達は約束の地カナンに突入できたわけです。親は子供を、自分以上に育てる義務があります。自分も共々にプールに入ってコーチにつく必要があります。
(1976.7.25「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-03-13 08:05 | 日岡だより
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