No.683 虚無からの救い(三浦綾子)/十分に話させる/十分に聞いてやる/十分に申し上げよ 2015.2.15

虚無からの救い
              三 浦 綾 子
 
  夜半に帰りて着物も変えず寝る吾を
  この頃父母はとがめずなりぬ
 この私の歌は、虚無的な退廃的な生活の中において詠ったものであった。戦時中、私なりに熱心な教師のつもりだった。そして七年目に敗戦を迎えた。
 アメリカ軍が進駐して、私たち教師の心は揺らいだ。それは今まで、教えて来た教科書の相当部分を、進駐軍の要請により、墨で黒く塗りつぶさなければならなかったからである。
 自分が若い情熱を傾けて教えてきたことが、果たして、再び教えることを許されない誤謬に満ちたものなのだろうか。いったい、何がまことで、何が誤りなのか、こう思いつめた日から私の虚無は始まったのだ。
 翌年三月、私は退職し、そしてまもなく肺結核を発病。心身ともに空洞をいだく身となった。そして、数年間、かつては熱心な教師であった私が、人にヴァンプと言われるような、虚しい生活を重ねて行ったのであった。
 その私が昭和二十七年七月五日、イエス様を救い主と受け入れたのだ。いかなる過程を経て、キリストを信じたかは、わずか二枚の紙数では書くことができない。だが、この日から、私の生活は確かに変わった。
  真実を求め来てついに得たるもの
  十字架の上のキリストの姿
 私はこの日、こう詠った。私自身がいかに乱れた生活にあっても、神は手をのべて、私が神を仰ぐ日を待ち続けていて下さったのだ。
 そして、私が神を見上げて以来、今日まで神は私の唯一の大いなる光であり、いのちとなった。そのキリストの愛がどのように私に満ちあふれているかを、私は小説を通して書きつづけているのである。
 (筆者は「氷点」等名作の数々をうんだ作家)
(1976.7.4「キリストの福音」より)


子供のしつけ方教室(5)
十分に話させる
              佐 藤 瑞 彦
 
 まず母親は、子が話しかけてきたならば十分に聞いてあげねばなりません。自分の用にかまけて、せっかく意気込んで、話そうとする子供の心をそらしてはいけません。中途半端でなく、何をさておいても聞いてやることです。
 その点で、弁護士松井一彦氏夫人は、とてもよい母親です。長女容子さん(中一)、長男完太郎君(小二)、次男は幼稚園。
 実にこの三人の子供の話をよく聞く方です。こうなると、子供もどんなに“ありし事どもを母に語る”ことに張り合いを感じることでしょう。顔も心もいきいきしてきます。
 子供にフルに話させ、フルに聞くことは、母親が気ぜわしくていてはできません。どっしりと落ち着いて、ほんとうに聞くという態度をとることです。お座なりではだめです。共感できること、協調できること、拒否すべきこと、批判すること、ともに喜ぶべきこと、励ますこと、ほめるべきこと、文字どおりのヒューマン・タッチでいくことです。
 松井夫人は、母校が河井道子先生の「恵泉女学院」。その育ちの基底に、キリスト教信仰がすえられている人です。私はこの方を見て、つくづくいい母親だなあ、と思わせられるのです。
(1976.7.4「キリストの福音」より)
 
 
十分に聞いてやる
 
 一九四二年にC・R・ロジャーズの発表した「非指示的カウンセリング」と呼ばれる、助言学の新しい提唱は、実に思いきって「何でも聞いてやる」「十分に話させる」という方式でした。
 今度の田中師解放特伝で、Oさんの御一家が来ておられましたが、その夫人が実は昨年腎臓と、その他のノイローゼ風の恐怖・不眠症(でなかったかと思います。正確には忘れましたが)で、相談に見えられました。その時、私は右のロジャーズ式非指示的カウンセリングの勉強中でしたから、早速「うん、うん」・・・・「ふん、ふん」・・・・「そして、・・・・なるほど」と相づちを打ちつつ徹底的に聞いてあげたわけです。すると二時間ほどしている中に、うとうとしはじめ、遂にがまんしきれなくて、御主人の自動車で帰宅、その車中でも眠りつづけていた由ですが、そんなにして、家に帰ってからも眠りつづけ、翌日目がさめるとけろりと、病気はなおっていました。
 先日、伝道集会に来ている時、余りに顔がかわっているので、どなたかしばらく判らなかった程です。この実例は(聞き覚えですので正確でない処もあるかもしれませんが、大筋に違いはありません)、十分に話させるという事が、大人でもいかに大事か判ります。十分に話させる、これは伝道の上にも大切な要点です。私は牧師として、これが下手で、すぐ相手の話をさえぎって、きつい言葉や、早合点の返事をして失敗しています。
(1976.7.4「キリストの福音」より)

  
十分に申し上げよ
 
 祈りは、神様への対話です。祈りは対話だから、まず神様の声を聞けというすすめもあります。「しもべ聞く、主よ語り給え」―――これは大事な祈りの姿勢です。しかし、こうなる為には、やはり十分に胸に一物も残らぬほど祈りぬく事が必要です。
 胸のすくまで祈って祈りぬく、そこではじめて、神の声も聞こえてくる。実際体験上、これが通常の道であるらしくあります。
 それ故、祈りは汗と涙をもってする大労働である事が多いのです。そういう祈りが、神の側よりの確実な結果を招きます。(釘宮)
(1976.7.4「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-02-21 12:41 | 日岡だより
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