No.679 「生きる」/子供のしつけ方教室(2)体で学ぶ/聖霊を待望せよ 2015.1.18

「生きる」
 
 黒沢監督に「生きる」という映画の名作がある。私が若い時、小説を書きかけて、その題を「生きる」とつけた。私は内心その題名が自慢であった。後年、黒沢監督が名作「生きる」を発表した時、なんだか掌中の珠を取られたような気持ちがして残念であった。
 「生きる」! すばらしい言葉です。生きたものと、死んだものと、どちらがよいか。誰に聞いても答えは明らかです。「あなたは生きていますか」―――こう問われて、すぐに「はい、生きています」と返事できる人は幸いです。「いや、俺はこの通り生きているぞ」と憤慨する人も多いでしょう。その人に、聖書はいいます。「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録三・1)、全くきびしいですね。
 生きていても、死んだも同然の人生を生きている人が、この世にはあまりに多いのです。希望のない、意欲のない、喜びのない毎日をすごしている人が多いのです。小学校の子供が、遠足の日や、運動会の日の朝、興奮して早くから起き出して、はしゃいでいる、ああいうふうに、底ぬけに明るい気分で、毎日、目ざめていますか。もし、そうでなければ、あなたもあまり素晴らしい生きかたをしているとは言えません。
 
 「わたしは命のパンである。わたしを食べるものは、いつまでも生きるであろう。」(ヨハネ六・48~51)とイエスは仰せられた。イエスの霊が今も私どもの内に、枝に流れこむぶどうの木の樹液のように、流れこんで来て、私どもを生かしてくれるのです。
(1976.6.6「キリストの福音」より)

 
子供のしつけ方教室(2)
体で学ぶ
 
 戦後、アメリカからとうとうと日本に入ってきた教育学は、いろいろと問題がありました。しかし、「為すことによって学ぶ」という、一つの力点は正しかったように思います。
 「為すことによって学ぶ」(ラーニング・バイ・ドゥーイング)の良い例は、セールスマン教育などでよく使われる、ロール・プレイングです。実際に、扉をあけて他家を訪問する処から、客への接近、商品の展示、説明、販売に至るまでを、実演してみるのです。このロール・プレイングを毎日汗みどろでやっただけで、人間が生れかわったように性格が変化向上した例を聞いています。
 子供のしつけの中で、それ自体それ程善だ悪だとこだわる事はないけれど、社会通念上身につけておいた方が何かと都合のよい言葉づかい、身のこなしがあります。例えば、挨拶用語とか、はきものを揃えるとか。こういう事は、口で言って聞かせるだけでなく、実際に実演させておくことです。挨拶など、自分で感じているより、必ず頭の下げ方が浅いものです。どのくらい上半身をかがめたら、どのくらいの挨拶になっているのか、体で覚えさせておく必要があります。これらの言葉づかいや、動作をハキハキ明るく表現できるようお母さんがニコニコとたのしそうに一緒にやって見せましょう。口さきだけ、やかましく注意して、実際に体をこなし、言葉を使う時、少しも手助けしてやらない、まして練習などさせもしない親御さんが多いのです。
 イエスが、最後の晩餐を、「記念としてこれを行え」と言い残されたのは、パンをさき、ぶどう酒をまわして飲む行為の中に、「為すことによって学ぶ」何ものかがあったのかもしれぬと思います。
(1976.6.6「キリストの福音」より)
  
 
聖霊を待望せよ
 
 あきらめてはなりません。
 人間、所詮これくらいのものだ。自分はこれ以上はどうにもならぬ、と自分に見切りをつけて、あとは成り行きまかせという人が多いのです。
 実際また、人間虫ケラの如きものだと自分を自覚するのが、信仰の入口ではあります。自分の罪におののく所から、信仰ははじまります。しかし、だからといって、キリストにあがなわれた人間の尊さ、神の子とせられたるものの栄光に目ざめない人は、この人生に敗北します。
 この神の子としての確信を与えるのは聖霊です。聖霊の下るとき、人間は一変します。敗北の人から勝利の人にかわります。恐れの人から愛の人にかわります。
 今日は、ペンテコステ(聖霊降臨)の記念日です。聖霊を待ちのぞみましょう。
(1976.6.6「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-21 22:34 | 日岡だより
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