No.677 祈りとは/祈祷会 2015.1.4

祈りとは
 
 キリスト教でいう祈りとは、神社に行って、交通安全祈願とやらをやる、ああいう空虚な、そして自分本位の礼拝擬似行為ではない。また街の祈祷師の前に行って、病気なおしや、失せものをさがしてもらう他人まかせの事でもない。キリスト教でいう祈りとは、神官や祈祷師でないと出来ないという、高等技術ではない。だれでも出来る平凡なことである。しかし又、それは、永遠の神、天地の創造主なる神に、一人一人が交わるという、高等な神秘的な事でもある。
 誤解しないでほしい、多くの場合、それは、決していわゆる神秘体験ではない。入神とか交神とかいう宗教体験のことではない。もっと平明な、常識的な「ことば」の世界である。祈りとは、私どもの「ことば」が、イエスの御名に托せられて、神に達し、神の「ことば」が、イエスの霊によって私どもの中にとどまるという体験である。
 
 私の長男は、長い間、信仰など明確な自覚体験としてはもっていなかったろう。信仰をもちたいと思っても、理知的につかめることではないから、何の事かよく判らなかったろう。その彼が、ある時、私どもと一緒に祈った。多分、何を祈っていいかも判らず、口ごもった事であろう。そして一声、「神さま」と、祈りはじめた時、ワッと心がわれ、涙がボロボロ目からふき出し、祈りの「ことば」が口をついてあとからあとから出てきた。そこに、目に見えぬ神の臨在があり、聖なる世界への扉がひらかれている事は、そこにいるものの誰にも分った。これが、祈りである。
(1976.5.23「キリストの福音」より)
 
 
祈祷会
 
 先月二十六日より、毎朝六時より七時半まで、早天祈祷会がもたれています。各自の、毎朝の生活リズムが異なりますので、六時より七時半まで(時には八時まで)の間、自由に途中で参入し、又退出する(その際挨拶不要)ことにしています。目下、毎朝平均四名という少人数です。遠くの方々も、今後一週間の中一日だけでも、出勤前に早天祈祷会に出席するというようにして、生活の中に教会のリズムを出来るだけ深く喰いこませる努力をしたらいかがでしょうか。必ずや、すばらしい恵みを体験されることと信じます。
 尚、先週より、金曜日の徹夜祈祷会がはじまりました。徹夜祈祷会といっても、まだ完全徹夜は無理のようですので、とにかく「二時間以上祈りぬく事。夜の十二時をすぎる事」を条件に徹夜祈祷会と称したいと思っています。一人では五分も祈れない人も、祈祷会で祈ると、さほど努力せずに三十分や一時間の祈祷ができるようになります。又、異言の祈祷もできるようになります。人間は決して、「行」で救われるのではありません。何時間祈ったなどと言って、祈祷の時間を誇り顔にするようでは困りますが、然し、又長い忍耐の祈りが、人を信仰の深みに導くのも事実であります。是非、こうした祈祷会に御出席下さい。
 今、もう一つ正午祈祷会というのが、もくろまれつつあります。サラリーマンやOLの人達が、ランチタイムに教会に集って、共に祈ろうという事です。こうした集会は、凡て誰か一人の必要に応じて生み出され、そして継続されていくのですが、今後もずっと栄えるよう、願っています。
 現在、水曜日夜の祈祷会はしばしば十名となり、以前に比べれば盛況です。十人で盛況というのは悲しいですが、日曜礼拝の出席が二十名をこすと、今日は盛会だったと喜ぶ現状ですから、大いに喜びたいと思います。東京のある大教会は、会員数一五〇〇名、日曜礼拝一五〇名、祈祷会一五名―――これでは情けないですね。
 当大分教会の目標は、本年末、礼拝出席五〇名、祈祷会二〇名、早天祈祷一〇名、としたいですが、会員諸兄姉よ、御賛意いただけますか。この事を主に祈っています。
(1976.5.23「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-07 15:33 | 日岡だより
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