No.674 人の目にかくされた信仰 2014.12.14

人の目にかくされた信仰
 
 むかしは、写真の原板を「種板(たねいた)」と呼んだものです。この種という言葉に、心をひかれます。
 
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、抜け出して海に植われ、と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」(ルカ17・6)
 
 とイエスは言われましたが、なる程、信仰は種(たね)に似ています。
 種を、土の中にまいたら、あとはその発芽を信じるのみです。途中で、土を掘りおこして、のぞいて見たりしていると、種はついに枯れてしまうのです。
 
 ところで、写真の種板―――つまり今で言えば、フィルムのことですが―――のことを考えてみたいのです。カメラにフィルムを入れて、一度シャッターをおろしてしまったらもうそれを開いて見るわけにはいきません。ちょうど土の中にまかれた、一粒の種に似ています。そして、種は水分や日光の暖かみによって発芽していきますように、写真のフィルムも現像液の中で、しだい貫最初レンズを通して感光した映像が姿をあらわしてきます。こういう所も、よく似ています。なる程、フィルムを種板と呼んだ筈です(もっとも、昔は今のようにフィルムでなくて、ガラスでしたがね)。
 
 写真というものは、最初シャッターをおろした時、ちゃんとフィルムが入っておれば、必ず被写体の映像がフィルムに感光している筈です。誰も、その事を疑いません。そしてフィルムを開いてみたり、確認してみたりせず、そのままDPE屋に持っていきます。予定日が来て店頭に行ってみると、ピシャリ期待した写真が(時には期待どおりではないにしても)写っています。「あなたの信じるとおり、あなたの身になる」(マタイ9・29)のであります。
 
 「信仰とは、望んでいる事がらの実体である………」(ヘブル11・1)
 
 フィルムの上に、写されている(望まれている)ものの実体は、すでに潜在しています。人間の肉眼で見えないだけです。科学の目で見れば、すでにそこにあるわけです。
 私たちの心は、このフィルムに似ています。そして、ひとたび聖霊の光に感光して、あるイメージが定着されますと、それを信仰と言います。それはまだ、人間の眼には見えませんけれど、神の目はあきらかに実在する厳然たる事実なのです。この信仰こそ、即実体なのです。
 
 この信仰(実体)は、まだ目に見えませんが、もともと、「見えるものは、見えない所から出来てくる」のです(ヘブル一一・3)。感光されたフィルムを現像液に入れておくと、しだいにその姿をあらわしてきますように。
 
 「信仰とは、………、まだ見えていない事実の顕出である。」(ヘブル11・1)
 
 この顕出という言葉は、私の造語ですけれども、普通日本語訳聖書では確認・確信・証拠・真実と訳されているエレンコーという原語です。責めたり説得したりして真実をあらわに出させるという意味あいがあります。人間の目にかくされている実体を、徐々に現像させ、姿をあらわさせ、地上の生活に顕出させる力、それを又、信仰というのです。一度、神によって与えられた確信を、すぐ芽が出ないからといって、あきらめないで、祈りと忍耐と持続する確信をもって(それが第二段階の信仰です)、その信仰という現像液の中でかくされた実体が、発現するのを待つ。
 あるかなきかの、からし種一粒ほどの信仰でよい。その信仰を、しっかり発芽させ発色させることを学びましょう。
  (1976.5.2「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-12-20 11:10 | 日岡だより
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