湯わかし器の話
ガスの火がパッとついて、コックをひねると、お湯がジャージャー出る。瞬間湯わかし器という奴。
ところで、このコックをひねってもお湯が出ない、「なんだ冷たいじゃないか」と思ってのぞいて見ると、火がついていない。この火がついていないというのにも二通りあって、元火がついているけれども通水管の下で威勢よく炎が上がっていないのと、全然元火もついていないというのと。
クリスチャンもこれに似ている。元火もついていないクリスチャン(?)が多々あるようですが、これはいただけない。元火はついているが、聖霊の炎が燃え上がっていないクリスチャン、これは多いのです。ですから、出てくる水は、あつくもない、冷たくもない、生ぬるい水です。
心が、内でもやされると、出てくる言葉や表情、しぐさが実に愛、喜び、聖さに溢れてくる。これは、いくら真似をしてもダメなので、真実、内で燃やされぬと生きた表現になりません。
しかし又、湯わかし器にたとえると、ガスはボウボウもえているのに、水道の方に欠陥があって、全然湯が出て来ないという人もあります。それは、余りに長い間使わなかったので、水道管がさびついているのです。
さっそうとした身ぶり、快活な話し方、心底愉快そうな笑い声、そういうものをすっかり忘れてしまって、さびつかせている人がいます。少しは、準備体操か練習をしておくとよいのですね。(1976.4.25「キリストの福音」より)
帰ろう
あなたが、万一孤児として育った方であったとしても、あなたがもし、ご両親のことを全然記憶していないとしても、あなたにご両親があったことは、疑い得ない事実です。この事実は、あなたの記憶や感覚とは矛盾するけれども、信じ得べき事実です。その何よりの証拠は、あなた自身です。あなたが、今ここにあるということは、あなたにご両親があったという事です。
それと同じように、私たちが今ここにいるということは、この私と、この万有とを、造った神がおられるという事です。神が無いなどという人は、口さきでそう言っているだけで、本当は誰でも神を信じています。少なくとも求めています。周恩来は、死ぬ少し前に、「私ももうすぐマルクスの処にいく」と言ったそうです。無神論唯物論の周恩来氏の心にも、ふと死後の世界が思わせられたのでしょうか。周恩来氏が死んだら、毛沢東氏は彼を「人民英雄永遠不朽」とたたえました。永遠とは神のみの属性であります。仮にも、そういう修飾語を使う時、天下の毛沢東氏も、どこかその心の一部で、神を恋うている事が分ります。
人間として、誰か永遠を思わないものがありましょうか。又、無限の愛、不壊の人生を願わぬものがありましょうか。
喉がかわくのは、本来どこかに水があるべきだからです。胃が飢えるのは、本来どこかに食物があるべきだからです。人間が永遠を求め、神を求めるのは、人間は本来そこに居たからであります。
人間は、神に帰らなければ、本当の幸福はつかめません。
人類は、神に帰らなければ、本当の文明を築き得ません。
政治も、教育も、産業も。
(1976.4.25「キリストの福音」より)