No.672 キリスト復活の証言 2014.11.30

キリスト復活の証言
 
 この日曜日は、復活節であります。言うまでもなく、イエス・キリスト様の復活なさった日を記念する、キリスト教の祝日です。この日は、春分の日の後にくる満月の日の次の日曜日。毎年一定しないのです。本年は、つまりこの四月十八日です。
 キリスト教の祝日で最も知られているのは、クリスマスです。しかし、私はクリスマス以上にこの復活節が好きです。日本では、デパートやキャバレーなどの、客集め用の特定日になってしまって、
「へェ、キリスト教でもクリスマスをするんですかい」
 と聞かれたという、嘘のような本当の話もある。そうなると私はつくづく、クリスマスをにぎやかに祝うのがいやになります。その点、復活節は、日本では静かでいいのですね。
 
 イエス様が、紀元三〇年頃、ユダヤの過越の祭の晩、ピラトのもとで十字架刑の裁判をうけ、死んで墓におさめられ、三日目の日曜の朝、復活なさった。復活なさった現場を見た者は、誰もいません。ただし、主だった弟子たちや数人の婦人たちは、復活したイエス様に直接お会いしたという。ユダヤの祭司たちは、この知らせに大いにとまどう。そして彼らが、
「これは、イエスの弟子たちが、イエスの死体を盗みだしてどこかへかくし、彼が復活したと言いふらしているのだ」
 と金をつかって宣伝したと、聖書にあります。もっとも、祭司たちが躍起になって宣伝せずとも、そのように疑ってみるのが、一般市民の一応の常識でしょう。祭司たちは、そんな架空の宣伝に身をやつすより、どこかへかくされてあるに違いないイエスの死体を探し出して来さえすれば、弟子たちの虚報は、一ぺんに化けの皮がはげるわけですが、切歯扼腕してもそれができなかった所に、「イエスの墓の空虚」の重みが評論的には、ずしりとするわけですね。
 もう一つ大事な点は、イエスの処刑前後、あれ程ユダヤ人を恐れて逃げかくれしていた弟子たちに、イエスの死体を持ち出して宗教的一旗をあげようとするような大それた事をする、勇気も山ッ気もあった筈がないということです。(だから、多分、本当にイエスは復活したのであろうとする議論のすすめ方も出るわけです。)
 勿論、死人の復活などある筈はない、という常識的批判は、一般の間では優勢です。最近では、キリスト教界の中でさえ、復活を疑う人が出るしまつです。これは実は現代人ならずとも、二千年前の昔の人の間でもそうでした。教祖が復活したというような作り話で信者集めが出来ると思ったら大間違い、それは今も昔も変りありません。聖書の使徒行伝を開いてみても、イエスの復活のことに説教がふれると、そんなバカな話をきいておれるかと、人が去っていった様子が書いてあります。
 復活は、十字架におとらず、キリスト教のつまづきなのです。この二つさえなければ、聖書の教えは、信じやすいのですよ。
 
 パウロが、当初キリスト教を批判したのも、多分この点であったでしょう。パウロは過激なユダヤ派でしたから、熱心にキリスト教徒の迫害家を演じて、遂に他国にまで乗りだし、シリアのダマスコ市に入る寸前に、神秘経験をするわけです。突然、天からまばゆい光が彼をてらし、地に倒れた彼に「サウロ、サウロ(パウロの旧名)。なぜ私を迫害するのか。」という声がします。同行のものは、光は見えたが声は聞かなかったと言います。このような経験を経て、パウロはクリスチャンに急旋回するのです。
 
 この経験をパウロは、あとでこう述懐しています。「キリストは………、三日目によみがえられ………、その後、………使徒たち全部に現れ………、そして、最後に、………私にも現れてくださった。」(第一コリント一五・4~8)
 聖書に従うと、復活されたイエス様は四十日の間、弟子たちの間にあらわれたのち、オリーブ山より昇天なさったとあります。その昇天のあと、何か月か、何か年かたって、光の中でイエスの声をきいた、その時の衝撃体験を他の使徒たちの復活のイエス様との対面記と同等に扱っている所に、パウロの確信のつよさと、また復活の事実の神秘さが伺えます。
 多くの神学者が言うように、イエス様の復活のたしかさは、探偵風の現場検証的なものでは実証されず、あのしょげかえっていた弟子たちの異常な心機回復、いや、旧に倍した超自然的エネルギーの噴出という心理学的傍証によるのです。そして、それにつづくパウロの証言は、現代の私たちの入信体験記の大半に酷似しています。インドのサンダー・シングなど全く、パウロの体験そっくりの経過を経て、クリスチャンに一変するわけですが、私なども、多少なりとも、うなずける類似体験から入信しています。イエス・キリスト様の復活は決して昔話ではないのです。また、こういう奇跡譚のようなもので「ありがたや、ありがたや」と、信仰に入るような、おめでたい人は今も昔も、いやしません。イエス・キリスト様の復活が、今も各自の魂に、たしかに「証し」される事実が生起する―――、そこに現代の使徒行伝がはじまるわけです。
  (1976.4.18「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-11-30 23:00 | 日岡だより
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