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No.668 冒険の旅/静思 2014.11.2

冒険の旅
 
 先日、新聞で別府の関という青年がアラスカのユーコン川でのカヌーの川下りを計画しているという記事を読んだのです。私は思わず、ひざをたたいて喜び、関青年に激励の手紙を書いたのです。同君は今年二十六才の由、元気いっぱいの頃です。がんばってくれと、もろ手をあげて祝福してあげたいのです。
 二十六才というと、私は大分駅前で戦災浮浪児をあつめて、防空壕や待合室のベンチでいっしょに寝起きしていた頃です。米がなくなると、乞食のまねをして南大分から玖珠郡あたりまで、米をもらって歩いたものです。あれも又、一つの冒険でした。
 冒険という言葉は、ちょっと軽はずみな印象を与えることもあって、多くの人の眉をひそめさせます。しかし、人間は要するに人生の岐路に立つ時、右するか左するかと長々と考えこむひまもなく、重大決定してしまうものです。結婚とか、就職とか。人間は、状況に追いこまれると相当メチャクチャな選択と決心をするようですが、自分から進んで、未知の状況にとび込む冒険をしたがりません。
 然し、多くの人がどう理解しようと、実は人生は冒険であります。テレビで、何もしらぬお姫様が危機一髪の橋をわたる時、本人は気づかずにニコニコしている画面に、見ている方がヒヤヒヤしている、ああいう危険いっぱいの人生を多くの人がすごしている。
 さて、勇者は、自分で危険のフタをあけてみて、その行程を一応みきわめた上で、ゴールを信じて一歩をふみ出すのです。あなたは、あなたの人生の、聖なる行程と聖なるゴールへの冒険の旅を始めたくはないでしょうか。
  (1976.3.28「キリストの福音」より)
 
静思
 
 現代の人は、あまりに忙しくて、静かにものを思う時間がない。静かにものを思うとは、イライラしてあれに迷い、これに惑うのとはちがう。一つのことをじっくりと考えるのである。一番いいのは、聖書の御ことばがよい。ヨシュア記一・8、詩篇一・2を見てください。ここで、律法の書(おきて)を思うと訳されている言葉は又、口ずさむと訳してもいい言葉なのです。
 律法の書→今で言えば聖書ですね。御ことばを、じっと見つめ、思い、口ずさみしているうちに、やがて自発的に内からおこってくる自由の行為、これを自由の律法という。こういう行為は、いわゆるガラテヤ書流の律法的行為ではなくて、人間に祝福をあたえる信仰の行為なのです(ヤコブ一・25)。
 人は心に信じて義とせられ、口に言い表して救われる(ロマ一〇・10)ように、体に行為として表わして祝福されるのです。これが、真の繁栄の聖書的法則です。
  (1976.3.28「キリストの福音」より)


by hioka-wahaha | 2014-11-05 16:38 | 週報「キリストの福音」
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