No.665 心を守れ/神は霊である/いのちの泉 2014.10.12

心を守れ
 
 あなたが、石ころを拾いたいと思うと、体がかがまり、手が自然にのびて、路上の石ころを拾う。からだは道具であり、心が主人であります。心は目に見えませんが、たしかな実在であり、各自の人格それ自身であります。イエス様は、心を倉にたとえました。善き人は、善い倉から善いものを取り出し、悪しき人は、悪い倉から悪いものを取り出します。善い行為、善い言葉は、善い心から出ます。「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉は、これから流れ出る。」(箴言四・23)のであります。
「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
わたしの語ることに耳を傾けよ。
それを、あなたの目から離さず、
あなたの心のうちに守れ。
それは、これを得る者の命であり、
またその全身を健やかにするからである。」
 (箴言四・20~22)
 心を守るには、心から「曲った言葉、よこしまな談話」(箴言四・24)を捨て去ることです。そして神の言葉(聖書の言葉)を、「豊かに宿らせなさい」(コロサイ三・16)。そうすると、御言葉は各自の心の中に根をおろし、意識の深み―霊層にまで根づいて、人間の革命をおこします。善と喜びと愛、創造と奮起の精神、そして肉体の健康をすら造り出します。
 病んでいる人、弱っている人、罪に呻吟している人、へりくだって神に帰り、神の言葉を心にたくわえ、これを口に告白して、神の救を得なさい。(申命記三〇・14、ロマ一〇・10)
  (1976.3.7「キリストの福音」より)
 
 
神は霊である
 
 心の深みは霊であります。人間は、霊と心と体から出来ているのです(Ⅰテサロニケ五・23)。霊は、「神が私たちのうちに住まわせて、ねたむほどに愛しておられる(ヤコブ四・5)」といわれる、人間の最中心部であります。アダム以降、人間のすべては、この最中心部を罪によって欠落している罪人だというのが、聖書の人間理解です。
 肉によって生れた人間は肉である。肉の思いは死であり、肉にあるものは神を喜ばせることができない。しかし、霊によって生れるものは霊であり、霊の思いはいのちと平安である。だからイエス様は、ニコデモという当時の知識人の一人に「あなたがたは、新しく生れなければならない」と、言われたのです。欠落している霊を新生させて、はじめて人は神の前に生けるものになるのであります。(ヨハネ三・1~8、ローマ八・6~9、創世記二・7)
 高等な動物には、人間と同じような心があるように見受けられます。しかし、よく注意してみると、それは殆ど感覚というべきもので、人間の心に特有の自己意識がありません。この自己意識の深みをさぐっていくと、もうろうとしてきて、自分で自分がつかめなくなります。この底なき深淵のよどみに、超自我を回復することを、霊の誕生といっていいかもしれません。それは「神の子」としての、自覚であります。
 
 ともあれ、心も霊も、人の目には見えません。見えませんけれども実在します。
 神も霊であって、人の目に見えません。体が、心の道具であり、体のうごき(目や、しぐさや、口のことば)で、その内にある心を察するように、人間は神によって造られた万物の運行を見て、それらを道具としてお使いなさり、統御なさっている霊的実在の神を察することができます(使徒十七・25~27)。神を否定するのは、自分の心(自己意識)を否定するのに似ています。そして、自己を否定して生きれば無責任な道徳欠陥者を生むように、神を否定する人間や社会には、もっと甚だしい虚偽、圧制、比倫が生じるのです。
 (1976.3.7「キリストの福音」より)
 
 
いのちの泉
 
 神を否定するという事は、自分の根源を否定することです。
 神を見出しなさい。そこに平安と喜びがあります。
 教会においでなさい。ここに、神の霊的場があります。神の実在と、救いがひしひしと、身にしみてわかる所です。
 からだの健康、家庭の祝福、職業の繁栄。すべては神より溢れ出る命の泉によるのです。
 (1976.3.7「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-17 19:53 | 日岡だより
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