No.664 人生というマラソン 2014.10.5

人生というマラソン
 
 毎年、一月か二月になると、別大マラソンが行われます。当教会のすぐ近くの道が、コースに選ばれます。何年に一度か、この競走を見ることがあります。あんなに速いスピードで何十キロメートルも走るのかとびっくりします。見ているこちらの方が、心臓の破れそうな気持ちのする程エネルギッシュに風をきって走りぬけていきます。
 マラソンは、古代より、ギリシャの国民的競技であります。聖パウロは、ギリシャ地方の伝道旅行において、マラソンの事をじかに幾度か見聞きしたこともあったかと思われます。
 
 「………私たちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル人への手紙一二・1)
 
 「耐え忍ぶ」という言葉は、どこかヨタヨタして疲れきった、弱りきった感じがあります。しかし、マラソンを見るとき感じますが、先頭をきる集団ほど元気で、尻尾の方ほどへこたれています。聖書に出てくる「忍耐」という言葉は、英雄的表現でありまして、決して泣きべそをかいて、獄吏に引きずられて這いずりまわっているような「耐え忍ぶ」ではないのです。
 
 昔、東海道五十三次を韋駄天のように走る飛脚のベテランがいました。その男に、「どうして、そのように速く走れるのか」と聞くと、「道の上の赤い石を見つけて走るんだ」と答えたそうです。次から次へと、視界に入ってくる道路上の赤い石を目ざしつつ、余念なく走っているうちに、足は自然に江戸から京に向うわけでしょう。
 
 「………イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル人への手紙一二・2)
 
 人生のマラソンにおいて、忍耐して、完走して、勝利の栄冠を得る(Ⅱテモテ四・7、8)為には、この目標がいるのです。赤い石ではつまらない。それでは東海道五十三次を行ったり来たりするだけです。朽ちぬ永遠の冠(Ⅰコリント九・25)を得るためには、イエス・キリストをあなたの目標としなさい。
 
 「………私は目標のはっきりしないような走り方をせず、………」(コリント人への第一の手紙九・26)
 
 普通、人生は旅にたとえられます。芭蕉の「奥の細道」の冒頭の句に見られるように、人生を旅として受けとめる感傷が日本人にはつよいのです。そして、それは正しく俳諧的(or徘徊!的)難渋にみちた、トボトボと放浪する荒野的人生観であります。
 そこには「走る!」という颯爽とした、果敢な人生観がありません。しかし、新約聖書の人生観は「走りぬく」人生であります。
 
 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし……」(Ⅱテモテ四・7)
 
 クリスチャンの人生は、戦いぬき走りぬく人生であります。私どもの教会も、献堂式を終わって、今ホッとしています。しかし、マラソンで言うなら走りながらジュースを飲んでも、腰をおろして一息つくことは、許されません。折り返し点をまわったら、そこで感傷にふけるいとまはありません。早速、つぎのコースに走りつづけるのであります。
(1976.2.29「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-17 19:49 | 日岡だより
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