No.662 五つ子でも、七つ子でも、生めよ、ふえよ、地にみちよ 2014.9.21

五つ子でも、七つ子でも、生めよ、ふえよ、地にみちよ
 
 子どもが生れる。非常に、うれしい事であります。旧約聖書の創世記を見ると、そこにアブラハムとサラという老夫婦の記事が出ています。アブラハムは百歳、サラは九十歳、こんなに年をとっていますのに、子どもがいません。二人には、子どもが一人も生れなかったのです。ですから、勿論、孫もいる筈もありません。老夫婦は二人だけの、本当にさびしい境涯です。
 この二人に、神様があらわれて下さった。そして、「サラに男の子が生れる。そして、その子孫は大きな民族になる」という、すばらしいお約束をお与えになる。はじめは、二人にはその事が信じられませんでした。サラには、すでに女性の月毎の事が止まっていたからです。当然です。もう九十歳の老人だったのですから。
 しかし、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。アブラハムは、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」(ローマ人への手紙四・18、19抄)
 
 女性の胎に、月毎に一つの卵子が排出されます。その卵子めがけて、おびただしい数の精子が殺到して、結婚の実をあげようとしますが、その実をむすぶのはたった一組のカップルであります。
 聖書(旧約聖書、新約聖書をあわせて)の中に、三万二千五百の神様のお約束があるそうです。そのおびただしい数のお約束のことばが、私の身の上に成就しないのは、なぜでしょうか。私の方に、「信仰」という卵子が無い。おびただしい数の神のおことばが、大軍勢のように私めがけて殺到してきても、精子をむかえる卵子のように、これをむかえる「信仰」が無ければ、私の身の上に神のお約束は成就しません。
 
 私は、青年時代(戦時中です)に、ある事で刑務所に入れられました。はじめ誤って、強制労働にまわされたのです。低カロリーのひどい食事のため、からだはどんどん衰弱する。立っているだけでも、やっとであるというような時、私は一瞬一瞬心の中で念じ、つぶやくように口にとなえました。
 「イエス・キリスト様、アーメン!」
 一週間すると、当初、非常に私をにくんでいた担当看守が私をたいへん可愛がりはじめました。食事を大きくし、衣服を新しくかえてくれ、はきものまで新品をくれました。そして十分に体調がととのった頃、突然、独房に移されました。独房生活でも、私はヨセフほどではないにしても、恵まれた方だったでしょう。この独房の中で、私は主イエス様にお会いして、本当にクリスチャンらしい、ほんもののクリスチャンになるのです。
 半年ほど前、あの強制労働の工場で、日夜あえぎあえぎ
 「イエス・キリスト様、アーメン!」
 と念じたあの祈り、あの口ずさんだ御ことばが、私の上に成就していくのです。
 私が退所する時、独房棟の担当看守は
 「あんたのような人は、見た事がない」
 と言いました。何一つ、かわった事をする筈もないし、出来もしない、たった一人の独房生活で、一人慎んでおれる聖なる力は、人の目にもわかったらしくあります。私の中に、イエス・キリスト様が住んでいたからであります。
 
 「いのちの言葉を、しっかり握れ!」(ピリピ人への手紙二・15より)
 
 アブラハムは、神様のお約束のことばを、しっかり握りました。このしっかり握るというのが信仰です。
 多くの人は「信じている」という気分を求めます。聖書は、神のことばを、しっかり握って、手から離すなと命じるのです。
 神のことばは、約束のことば、それはおびただしい数ですが、今のあなたに必要なことばは一つでよいのです。一つの信仰で、一つのみことばをとらえなさい。このみことばを胎内に育てなさい。必ず、信仰の実が与えられます。(信仰はからし種一つぶほどでよい。よい畑におろしなさい。よい畑とは、従順で持続する心です。)
 最近、鹿児島で五つ子が生れました。若夫婦は喜びもし、びっくりもしたでしょう。信仰の実もまた、ただの一つにとどまる必要はない。五つ子でも、七つ子でも生みましょう。生めよ、ふえよ、地にみちよ。
     (1976.2.15「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-09-30 22:00 | 日岡だより
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