No.660 現金と証書/おなかの中のあかちゃん/キリストの復活 2014.9.7

現金と証書 
 
 宗教というものは、神だとか、来世だとか、あてにならぬものを、勿体づけて、ありがたそうに言う。そんなことを言って脳のよわいものをたぶらかす。宗教は、アヘンである。そう、思っている人が、多いでしょう。
 しかし、聖書は、こう答えるのです。
 
 「見えるものは一時的であり、見えないものは、永遠につづくのである」(Ⅱコリント四・18)
 
 お金を手に持つ。たしかに、実感的です。このお金は、目に見えます。肌にさわれます。しかし、こういうお金は、すぐ手をはなれていきます。又、その額も知れています。
 お金を、銀行にあずける。お金は手をはなれて、一冊の通帳になる。あるいは、一枚の証書になる。このように、たしかな処に預けられた金は、一時姿を消しているようであるが、手の上にのって、目に見えているお金よりも、寿命が長い。又、その方が、しばしば大量の金であり得る。三百億円や一兆円の金を、手でもつことはできない。体でかかえることも不可能でしょう。しかし、銀行にあずけて、一枚の証書にするなら、いかなる大金も手で持つ事が可能です。
 人間の生命は、肉体にある間は、実感ですが、有限であります。しかし、もし「たしかな処」があって、そこに私どもの生命を預けられるとしたら、どうでしょうか。もっと、もっと豊かな生命、天に積む宝を、目に見えぬ処に獲得し得ないでしょうか(マタイ福音書六・20)
   (1976.2.1「キリストの福音」より)
  
  
おなかの中のあかちゃん
 
 母体の中で、赤ちゃんが足をけると、「私の赤ちゃんは、元気がいい」と言って、お母さんは喜びます。生れたら、おっぱいをうんと飲ませよう。赤ちゃん体操をさせよう。元気のよい、かしこい子供に育てよう。生れぬさきから、お母さんの胸は、期待でふくれています。
 赤ちゃんの前途には、すでに外界で、用意が万事ととのえられています。ベビー服とかベビーベッドとか、おむつとか。それのみでなく、もっと大切なものが、準備されています。太陽の光とか、空気とか。
 おなかの中の赤ちゃんは、既に手足は活発に動いて、お母さんのおなかをけっていますが、これは実は、物を掴み、大地を歩くためのものです。赤ちゃんの体には、既に肺も、目も耳も出来ていますが、これはまだ使用されていません。しかし、生れてきて外界にふれると、すぐ、オギャーと泣きますが、あれは肺臓の使いはじめです。それから、目や耳が、光を見、音をききはじめます。
 
 赤ちゃんにとり、手や足や目や耳が、貴重な肉体の道具であるように、大人の人間にとり、精神は心の道具であります。
 人が、永遠を想い、無限の世界を考究し、来世を想像し、芸術や人民英雄の永遠不朽を信じたくなるのは、ちょうど赤ちゃんがおなかの中で、手足を元気に動かしているのに似てないでしょうか。今の処、赤ちゃんは、おなかの中で、必要もない、手足を無我夢中で動かしていますが、それは私たちがこの世で、永遠の世界を思いめぐらしている精神の動きに似ていないでしょうか。
 
 「神はまた、人の心に永遠を思う思いを、さずけられた」(伝道の書三・11)
    (1976.2.1「キリストの福音」より)
 
  
 
キリストの復活
 
 キリストの復活が信じられないという、クリスチャン(?)が、今教会に多数いるらしい。そんなクリスチャンが、クリスチャンとしてまかりとおっている教会は、真にキリストの教会とは言えまい。どうして、そんなヘンなクリスチャンが生まれるのか、その理由を伊予三島真光教会の週報に金田福一牧師が書いてくださっているので、左に転載します。
△キリストの復活を信じられないというキリスト者。その理由は、一、キリストの臨在を知らない。生けるキリストに会ったことがない。従って、十字架も復活も分らない。
 二、神の前に立ったことがない。神の前に立った聖なる恐れに打たれたことがないのだ。
 三、自分の罪に気付いていない。自己追求そのものにしかすぎないおのれの存在を知らないのだ。
 四、従って、罪の赦しを得ていない。おのれの罪に戦けば、十字架が分るはずだ。罪の赦しを聞くはずだ。その臨在を示し、罪を示し、罪の赦しを宣言する生けるキリストは、復活したキリストである。教会にも神学校にも責任がある。
     (1976.2.1「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-09-11 09:26 | 日岡だより
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