No.656 信仰短言、クリスマス 2014.8.10

《信仰短言》 
 
         ×
 敵を愛するということは、むつかしい。
 しかし、敵のために、祈るということは、できる。
 そして、敵のために、祈っていると、愛がわいてくる。
         ×
 むかし、「日本人ここにあり」と言って、有名になった男がいた。
 本当に、「われここにあり」と言えるのは、神だけである。
 人間は、神の前に立つ時だけ、「われここにあり」と自覚する。
 「主は活く、我も活く」と。
         ×
 たいてい、成功した人は、見通しのいい人だ。そして、そんな人は、計画性もあるし、備えもある。
 そんなに、見通しのいい、考えの深い人でも、死のことや、自分の魂のことは計算に入れていない人が多い。
 そんな人は、歩を成らせるのに夢中で、王様のことを忘れているヘボな将棋さしと、同じである。大実業家も大臣も大学者も、えてしてそんなものである。
         ×
 「神をおそれるは、知識のはじめである」と、旧約聖書にある。
 これは、神をおそれることが。知識の第一歩であるとか、入門であるとか、いうのではない。神をおそれることは、知識の基礎条件であるということだ。
 神をおそれず、神にそむいて知識を得たのはアダムである、その果ては死である。
 神をおそれぬ知識の所行は、あらゆる教育も政治も、協議会も条約も、人類の死を呼ぶ。
    (1975.12.21「キリストの福音」より)
 
 
クリスマス 
 
 私は、にぎやかな、クリスマスがなじめない。キャバレーや、デパートのクリスマス便乗風景はもちろん、教会のクリスマス祝会ですら、好きでない。子供の学芸会さわぎは、冒涜のようにすら感じる。
 しかし、ストーブの音だけが耳に入り、しんしんとして静かな聖日、簡素な会堂で行うクリスマス礼拝は好きである。
 世間はちょうど、歳末のあわただしい時で、そういう時だからこそ、いっそう、そういうあわただしい世間から、選び出されて、神の恩寵の前に立たされているという、感謝と喜びにみたされる。
 
 イエスは、馬小屋で生れた。
 旅さきの、何もかも行きとどかぬ、不如意の中で生れた。
 イエスの寝かされた、ベビー・ベッドは、馬の餌箱であった。
 イエスが生れた時、天使は共にうたってくれた。しかし、その歌声をきいたのは、下級労働者の羊飼いたちだけである。
 世間はだれも知らない。世の知らない処で、この大事件のしょっぱなは、おこった。
 
 クリスマス!
 それは、今もおこることである。
 いや、おこらねばならぬことである。
 私の中に。
 馬小屋や、馬の餌箱どころではない。もっと、よごれはてた、どぶ川に埋れてくちた、肥桶のような私の中に、イエスが生れる。
 
 どんな奇蹟があるといっても、イエスの誕生を、私の中にむかえるということほど、奇蹟はない。
 そして、そのイエスの生が、日々私の中に営まれるということほど、素晴しい奇蹟はない。
 このことを、世は知らない。それは、世間の片すみでおこる。
 こういうことは、小さい事だと思っている。
 一人一人の、主観的な、些細なことで、天下国家に関係はないことと思っている。歴史や文化に縁どおいことと思っている。
 
 中東の片すみでおこったキリスト教は、ローマ社会をかえた。
 ドイツの田舎大学よりおこった宗教改革は、ヨーロッパをかえた。
 今また、地球の全面に住む人類の上に、あたらしい精神発酵のおこる時がきている。物質文明の過熱によって、米は炊きあげられ、むしかえされている今ここに、少量のこうじ菌をふりかけさえすれば、世界はかわる。
 
 私たちが、イエスをむかえるということは、世界の歴史において、大変なことなのだ。その自覚をもとう。
 私たちは、一人一人着実に、隣人にこのこうじ菌ならぬ、イエスの生命を伝播していこう。
 愛しにくい人を、愛しなさい。
 人の為に、祈り、労し、生命をすてなさい。
 
 サンダー・シングは言う。ある時、ヒマラヤの雪の中で、旅人が寒さに倒れかけていた。一人の旅人がそれを見て、通りすぎた。サンダー・シングも、今にも凍え死にそうで辛かったけれども、その倒れかけた旅人を背負って旅を続けた。すると見よ、しばらく行くと、さき程、半死の旅人を見捨てて通りすぎた旅人は、寒さの為に凍え死んでいた。然るに、サンダー・シングも、また背にした半死の旅人も、互いのあたたかみによって、二人とも元気を回復していた。
 愛は死に打ち勝つのである。そして、この愛のプレゼントの主こそ、イエスである。
(1975.12.21「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-13 17:10 | 日岡だより
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