No.655 福音の源泉に帰れ(つづき) 2014.8.3

福音の源泉に帰れ 
 
    四、福音の支配
 
 福音とは、単なる「よきおとずれ」以上のことである。耳で聞き、目でよみ、心でナットクして、受け入れさえすればよいという「告知」以上のことである。「よきおとずれ」のそのおとずれが、人間の魂の髄に食い込む為には、理解や決断をこえた、神の証言力が迫ると、人間の魂はガバッと分る。その神の証言性こそ、本当のおとずれ(つまりことば)なのである。
 神のことばとは、はじめよりありし処のもの、万物を造った神の創造原理、生命の原理、光の原理である。死人を死より生にうつし、暗黒より光明にきりかえて、死と罪の法則より解放する力である。ヨハネが「つらつら見て手でさわった」ことのあるそのことば、ペンテコステ以後多くの真実のクリスチャンたちが「つらつら見て手でさわり」得たかの如き聖霊の力、それが福音である。
 管球を電源からはずして放置しておく、いくらみがいても、拭きこんでも光らない。しかし、少々汚れていようが、ほこりがついていようが、電流を通しさえすれば、管球はサン然と輝く。管球は、電流(光の力)にふれて、暗黒の力より解放されたのである。
 今、この世は一見、暗黒の支配下にあるように見える。しかし、暗黒の原理は負の原理であって、あるように見えるのは、虚構である(その虚構におどらされるサタンや罪人は実体である)。実在するものは光の原理のみである。故に、やみは光をかくすことはできぬ。光はやみを放逐する本性をもつ。光は実在であり、やみは非実在であるから(但し、やみにおびえ、やみに迷う人間は実在である。だから、やみに迷う人間がたちはだかると光のこなたにやみができる)。
 その光の原理が、目に見えぬ網の目のように、この世界にはりめぐらされて、かくれた電流の如く息づいているとしよう。これが、この暗黒王国の中にかくれる、もう一つの秩序・神の支配(くに)である。あたかも、やみの中に、はりめぐらされた高圧電流の鉄条網のようである。まっくらやみに見えるが、それにふれるものがあると、パッと全地を照らす。そのように、この世界に神の言葉(キリスト)の原理(力)が根をはって息づいている。これにふれて、光をはなて。御言葉うちひらきて、光を放、それが光の子である。
 
    五、聖書のよみかた
 
 聖書を読むには、聖書の中にピチピチはねている神の証言にふれることが肝要だ。それが「いのちのことば」だ。「御言葉を豊かに貯えよ」と言って、聖句を暗誦して頭の中に聖書の知識をつめこむことは、悪いことではない、勿論よい事だが、ベストではない。そして、しばしば、ベターはベストの敵である。同様の意味で、いわゆる聖書研究は危険である。「ものみの塔」式は勿論、無教会流の聖書研究も。
 聖書をよむ時、聖書にある神の証言(力)に感電されて、そして今の時代を聖書の中に移しかえ、その中であなた自ら聖書中の人物、聖霊の人にさせられる、そういう読み方がよいのです。
 
    六、生命原理
 
 これが福音である。あなた自身が、その神の証言、つまりロマ書八・2に言う「生命原理」によって、罪と死の原理から解放され、この天地を舞台にして、大いに手足をふるい、精神を躍動させて、神の栄光の表現者になれるという事、この大解放の源泉こそ福音である。
 全人類よ、生命原理である福音の源泉に帰れ!(終)
 
 〔註〕神のことばが全天地にみちあふれても(詩一九)私になぜ聞こえぬか?
 原子の中にかくれていて、一向実用的電力にならない電気のように、全天地にみちみつる神の臨在(聖霊)は、人間の救に直接作用しない。そこまできている、いや私自身神の体、神の宮であるのに、私に神が作用しない。他のエネルギーを発電機で捉え、全天地に満ちる電気を見える形で私どもの処に送り届けてくれる、この発電機をキリストに例えられないだろうか。聖霊は、至る処に充満していても、あらためて、キリストよりキリストの霊として受けなければ、聖霊は私のもとにチャージされない。神と人間と接触のこの二様性は、東洋思想とキリスト教思想の重要なむすび目になりはせぬかと思う。
(1975.12.14「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-13 17:03 | 日岡だより
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