No.651 迫害下におけるクリスチャン 2014.7.6

迫害下におけるクリスチャン
 次にかかげるのはルーマニア地下教会の指導者R・ウオムブランドの著書よりの抜粋である。
◇共産党政府の刑務所で耐え忍んだ拷問のあとにも、私が共産主義者を憎むようにはならなかったのである。彼らも神に造られたものである。どうして彼らを憎むことができよう。
 私の主であるキリストは、共産主義者を愛しておられる。彼ご自身が、すべての人を愛しておられ、九十九匹の正しい羊をおいてでも、一匹の迷った羊が失われてしまうことをよしとされなかったおかたである。使徒たちも、世々のキリスト教の偉大な教師たちもみな、主の御名による、このすべての人に及ぶ愛を教えた。セント・マカリイはこう言った。「人がもし、全人類を熱愛していると言いながら、あるひとりの人だけは愛せないというなら、その人はもはやクリスチャンではない。なぜなら、その人の愛が、すべての人を含む愛でないからだ。」アウグスティヌスもこう教えている。「もし全人類が正しい人間であり、たったひとりだけ罪びとがいたとしても、キリストは世に下り、このひとりの人のために、同じ十字架を忍ばれたに違いない。主はかくもひとりびとりを愛しておられるのだ。
◇あとになって、かつて私たちを拷問にかけた共産主義者が投獄されてきた。拷問をした者とされた者とが同房になった。クリスチャンでない人たちが、以前の尋問者に憎悪を示し、打ちたたいたりする中にあって、自分も打たれたり、共産主義者とぐるだと非難されたりすることを恐れず、彼らをかばうほうに回った。クリスチャンが最後に残った一枚のパン(当時は一週に一枚のパンしかもらえなかった)を、今は同囚の身である病気の共産党拷問者に与え、また命をとりとめる薬を与える姿を見た。
◇孤独な獄中では、私たちは以前ほど祈ることができなかった。私たちは、想像もつかないほど空腹だったし、白痴になるぐらい麻酔をかけられ、まるで骸骨のようにふらついていた。主の祈りでさえ、私たちには長すぎて、全部祈るだけの集中力がなかった。何度も私がくり返して祈ったただ一つの祈りは、「イエスさま、あなたを愛しています」というひとことだった。
 ある輝かしい日、私は主イエスからの答えをいただいた。「わたしを愛しているというのか。では、わたしがどのようにあなたを愛しているか見せてあげよう。」一瞬、私の心に、太陽のコロナが吹き上げて燃え盛る炎のようなものを感じた。エマオ途上で、弟子たちは、イエスが話しかけられたとき、心が燃えたと言った。私たちすべてのために十字架にかかり、いのちをささげられたかたの愛を私は知った。このような愛は、いくら共産主義者の罪が深いと言っても、それを締め出すことはできないものなのである。
◇十四年間の獄中生活をふり返ってみると、とてもうれしい時もあった。他の囚人たちや看守でさえ、なぜ、最悪の環境の中でクリスチャンは喜んでいられるのかを、しばしば不思議がった。私たちは、讃美を抑えることができず、打たれることがわかっていても歌った。うぐいすも、歌を歌い終わったら殺されることがわかっていても、やっぱり歌うだろうと想像する。獄中のクリスチャンは、喜びのあまり踊り出すこともあった。こんな悲壮な状況にありながら、どうしてそんなに幸福になれるのだろうか。
◇地下教会の私たちには大会堂はない。しかし、どんな教会が、私たちがひそかに森に集まったとき仰いだ大空の美しさに比べることができよう。小鳥のさえずりがオルガンの代わりとなり、花のかおりが私たちの香となった。最近釈放された受難者のみすぼらしい洋服は、司祭のガウンよりずっと印象的であった。月と星が私たちのろうそくであり、天使がろうそくに点火してくれる私たちの助手になった。
 この教会の美しさは、とうてい筆で書き表わすことはできない。秘密の集会が終わると、しばしばクリスチャンが逮捕され、刑務所に送られた。そこでクリスチャンは、ちょうど花嫁が、愛する者から受けた宝石をつけるように、喜びをもって鎖をはめる。刑務所の川は静かだ。そこではキリストの口づけと抱擁を受け、どんな王の地位とも取り替えようとは思わない。私は、真実の喜びにあふれたクリスチャンを、聖書と地下教会と刑務所の中だけに見いだした。
   (1975.11.23「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-07-09 23:02 | 日岡だより
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