No.650 キリスト教の不人気な言葉「罪」について 2014.6.29

キリスト教の不人気な言葉「罪」について 
 
 ある方より手紙を頂きました。以下はそのお手紙への返事の一部です―――。
 「生きるということは、罪を積み重ねていくということではないのか」と言われるのは、本当です。私事を申し上げますが正に、このことが青年時代の私の求道の第一歩でした。また、この一事が私の親友の死の原因でした。私の親友の一人が、この事にめざめました。人間が、生きるという事、一刻一刻生き延びるだけ、それだけ罪の積み重ねである、少しでも早くこの罪の生にピリオドを打とうと、自殺しました。彼はその死の寸前まで、哲学やドイツ語の勉強を怠ることなくつづけて、そて私にノートを一冊のこして死んでいきました。私はそのノートを胸に抱いて一夜泣き明かしました。二十才の頃です。
 その時より私は、文学やスポーツや娯楽を捨てて、宗教的求道の人になりました。罪について全くの救いの確信を得たのはそれから二年ほどして二十二才の秋です。
 あなたは罪という言葉を英語で表現する時、複数で言いあらわしますか、それとも単数で言いあらわしますか。誰でも習慣的にシンと単数で言うと思いますが、実際に脳裏に浮かぶイメージとしては複数としてのシンズ(数々の罪)ではないでしょうか。実は一本の地下茎に多数の竹が成長するように、一つの(単数の)大きな罪の基盤の上に、多くの数々の罪(複数)が生じるのですよ。
 端的に言い換えると、日毎罪をおかすから、罪人であるというのではなく、まず罪人であるので、日毎為す業が罪になってしまうのです。マムシが水を飲むと、毒に変じるといわれる古語のとおりです。
 キリスト教が世間に不人気なのは「罪!罪!」と言うからだと言う人もあります。そうかもしれません。しかし、罪の究明を外したら、人間の本当の建てなおしはできません。ゆがんだ家の再建は、基礎からやりなおすように。
   (1975.11.16「キリストの福音」より)
 
 
「救い」について 
 
 「罪というものがイエスを信じるというだけで救われるというのは、安易すぎて本当だろうかという気もする」と、言われますね。
 本当に私も安易すぎるとは思いますが、しかし他に方法はないのです。母親が乳をくれるというのに、赤ん坊が「それはお母さん勿体ないです。タダで、何もせぬ私に乳を下さるとはあんまりです。私に何かさせて下さい」と言いましょうか。赤ん坊は、何も言挙げせず、無邪気に、頼りきって乳を飲んでくれさえすれば母親は喜びます。乳を飲んでくれない乳児ほど母親にとり心配なことはありません。
 あなたは、霊の乳房の主であるキリストの心を喜ばせたいと思いますか、又は心配させたいと思いますか。
 尚、「イエスを信じる。そして自分の罪のゆるしが信じられる」というこの信仰は、
①まず知的におこります。牧師や信仰書に教えられて。これにさきだって「我、罪人なり」という知的な理解が心にわだかまっている筈です。
②人によっては、①の知的段階を通りこしてこの第二段階にいきなり来ますが、この救いの確信が情緒的にやってきます。涙をぽろぽろこぼすようにして、感動的にやってきます。理くつぬきに、キリストのあがない、私の救いがわかります。
③人によっては①も②も通りこして、いきなり、深い霊的場所(人格の最も深い処)で静かな革命がおこります。一瞬にきます。徹底的信仰となります。この段階の信仰となると決してゆらぐ事はありません。この段階で、神の前における罪ということが、本当に分ってきます。ここに来るまでの罪自覚は、理くつでいう罪意識であるし、又感情的にクヨクヨ、イライラする自己呵責にすぎません。
 右のような信仰の段階式説明は決して教界多数の承認を得ていない私見にすぎませんが、経験上こう言ってみても余り誤りはないと思います。この①②のときには信じているとは思っても、やはりこれでいいのだろうかと時に不安、疑いがおこります。又仰言るとおり、あまりに安易な解決ではないか、これは単なる人間の思い込みではないかと心配します。しかし、必ず、①→②→③と信仰は進みます。③の霊的確信に至れば微動だにしませんし、又決して「安易な事」どころではない深刻重大な神の世界の計画の一部であることが分りはじめてきます。
     (1975.11.16「キリストの福音」より)
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by hioka-wahaha | 2014-06-30 12:00 | 日岡だより
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