No.649 大歓喜の人生 2014.6.22

先週の聖書講義(つづき)
大歓喜の人生 
  
 以上のようにして、エリサベツはのちにバプテスマのヨハネとなる男の子をみごもります。それから六カ月たってマリヤは天使の御告げを受けます。彼女は処女であるのに、聖霊によってみごもり、男の子をうむであろう。その子をイエスと名づけよ。彼は聖なるものであり、神の子ととなえられるだろう、というのです。平凡な田舎娘にとって、これは大変な事です。エリサベツが長い間不妊の女であったのは恥かしいことではありましたが、それ以上の汚名や生死にかかわることではありませんでした。しかし、今結婚もしていないマリヤがみごもるという事は社会的に、家名の為にも、又一身上にとっても石打ちの死刑に処せられるという大変な事でした。
 しかしマリヤは言いました。
「私は主の召使にすぎません。何もかも主のお言いつけどおりにいたします。どうぞ、いま言われたとおりになりますように。」(ルカ一・38リビングバイブル)
 これは、イエスさまがゲッセマネにおける最後の夜に
「ですが………、わたしの思いどおりにではなく、あなたのお心のままになさってください!」(ルカ二二・42リビングバイブル)
 と祈ったのと全く同じ祈りです。これは、信仰の極致を示す祈りです。
 道具が人に使われるとき、道具は自分勝手な動きをしません。全く主人にゆだねます。信仰の極致は「大死一番」、自分に死んで、神に全托することです。道具が完全に自分に死んで、その主人に全身をまかせる時、主人は自分の意志をこの道具をとおして外にあらわすのです。
 マリヤは従順に神の言葉にしたがいました。
 しかし、信仰、信仰と言っても、世間をはばかる身重の姿になるわけですから、マリヤの心は多分くらくなる事でしょう。それを見こしてか、天使はエリサベツの事をあらかじめマリヤに知らせています。マリヤは、親族でもあるエリサベツに会って一刻も早く、この聖霊による重大な事件を打ち明け、共になぐさめ励まし合いたかった事でしょう。
「マリヤのあいさつを聞くと、エリサベツの子供は、おなかの中でとびはねた。エリサベツは聖霊にみたされ声高く叫んだ。―――あなたが(主の母であるあなたが)入って来た時、子供は胎内で喜びおどりました」(ルカ一・41~44)
 神の子をその身に宿したマリヤがエリサベツを訪れたとき、エリサベツの胎内にある子は喜びおどったと言います。キリストの接近は、私どもの胎内にある新しい生命に、大いなる喜びを与えます。もし私たちが新生してクリスチャンになっているというなら、本当は大いに喜んでいる筈です。ところが、しばしば悲しみや不安に打ちしずんでいるクリスチャンにお目にかかることがあります。それは、キリストの接近が無いからではないでしょうか。
 つねにキリストの近くに、キリストと共に、キリストの内に住む―――、この経験がないと、せっかくの新しい生命が、内にしおれてしまい、喜びを失ってしまいます。
 
 人生は、つねに順風満帆ではありません。失望、挫折、離別、病気―――などと思わぬ苦難もやってきましょう。そのような時にも、確信と平和と喜びのある人生は、真の神より来る魂の平安からしか生れません。いかなる時にも、喜びおどるような大歓喜の人生を送るには、金や地位や物や家庭の満足ぐらいでは与えられません。本当の喜び、人生の充実は、キリストの臨在のみにあります。
         ×
 以上の二つの章にわたる文章は、去る十一月二日(日)の礼拝説教の一部をもとにして、あらためて書きおろしたものです。テキストはルカ福音書第一章を用いました。次の日曜(十一月九日)も、同じ聖書の箇所を用い、もう一度ザカリヤ夫婦とマリヤの信仰を学びたく思っています。(釘宮)
 (1975.11.9「キリストの福音」より)
 
富永徳麿先生の信仰 
 
 今から四十五年前、昭和五年ですが、私にとっては忘れられない人が三人天に召されています。一人は内村鑑三、これは有名な人物ですから、たいていの人は知っています。もう一人は釘宮太重、これは私の父で、全く無名の人ですから、ここにこの名をのせるのは息子の私の感傷か? 最後の一人は富永徳麿、大分市出身の余り世間に知られぬ人ですが、教界では知名の人、無類の学者で、且つすばらしき牧師―――、こう言っています。
「私はキリストの霊が今も、彼を信じる者の内に流れ入って、その思想と感情と意志とをつくりかえ、根本より新人格にすることに気づき、私は宗教に新天地を発見しました。この真実を経験して、私のキリスト教は全く以前とかわり他からは別宗教とも目されたかもしれません。これによって、自ら救われたるを感じ、またこれを信ずるものは誰でも救われるを見、またこれは今日も将来も、誰でも信じ得て、誰でも救われ、人がかわり、世界がかわると信じておおります。」
 漢文調の文章なので、少々私がいじったけれど大意は右のとおり。キリストの真実は昔も今もかわりません。人を救う力です。
(1975.11.9「キリストの福音」より)
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by hioka-wahaha | 2014-06-25 12:00 | 日岡だより
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