No.646 瓦と鏡 2014.6.1

瓦と鏡 
 
 ある仏弟子が熱心に坐禅をしていた。そこに、老師が近づいて言った。
「お前、何のために坐っているのか」
「ハイ、老師。仏になる為です」
 老師はそれをきくと、黙ってそのあたりから古瓦を拾ってきて、しきりに石の上でこすりはじめた。弟子はおどろいて、
「老師さま、どうなさったのですか」
「そうさな。この瓦をみがいて鏡にしようと思う―――」
「とても。瓦はいくら磨いても鏡にはなりません」
「そうじゃろか。そんなら、凡夫はいくら坐禅しても仏にはなれんぞ」
 これは中国より伝わる古い禅話です。
(1975.10.26「集会だより」より)

 
信仰と信念
 
 「信仰」というと、「信念」と同じもののように思われがちです。それは又、実際よく似ていますけれども、本当はちがいます。
 「信念」には、一種の意地を張るようなところがあります。「信仰」は意地を捨て、この私の始末を神に委ねることであります。
 先日、宇佐市の善光寺さんの御本尊が盗まれたそうです。ご住職があわてて警察に届け出ておられました。金や宝も盗まれる。家も焼ける。それは世の常ですが、もっと大切なものを盗まれることがあります。
 私は三十年前の戦争中、ある種の信念をもっていました。その信念を一瞬のうちに失ったことがあります。誰からも説得されず、また脅迫されたのでもなく、ただ自発的に心の内側で、ガラガラと音を立てるようにして、元の信念が崩れていくのです。
 この時、私は自分が信念のない、恥ずかしい、転向者になり下がったことに気づいて、口惜しさに泣いたことがあります。自分の心の中から「信念」という御本尊がぬすまれるのです。
 私の「信仰」は、こういう「信念」の崩壊によって自分に全く自信をなくした処から始まりました。(釘宮)
(1975.10.26「集会だより」より)

 
大死一番
 
 よく「大死一番、大死一番」というでしょう。「おのれに死ぬ」というでしょう。しかし、自ら死のうとしても、死ねないのが自我なのです。それが自我の本性というべきです。その自我に向って、「死ね」というのが、どだい無理なのです。いくら死のうとしても、死のうといきりたっているのが自我ですから、自我は最後までなくならないのです。
「キリストが万人の為に死んだ以上、万人つまりこの私も、すでに死んでいるのである。(第二コリント五・14)」
 キリストの死において、私の死も成就していると信じるのが、「キリストの福音」の第一歩です。この信じるというのがくせものでしてね、アタマで教理として承認することではありません。しかし、この背理的な信仰は、①聖書をよむこと②祈ること③教会(信徒の交わりと礼拝)の中で必ず与えられます。求めていると必ず与えられます。それは「聖霊の働き」としか言いようのない不思議な力で心に変化がおこります。ある人には激しく突然、ある人には静かにゆっくりと。
(1975.10.26「集会だより」より)
 
 
福音
 
 「福音」という言葉は、明治の頃、聖書を翻訳するとき、初めて使われました。多分、漢訳聖書を参考にして採用された熟語だと思いますが、もうすっかり日本語らしくなってしまいました。そのかわり、「奥様に福音、××洗剤!」というように、安っぽく使われはじめたのも事実。
 キリスト教でいう福音とは何でしょうか。それは神が人類の救いのために、イエス・キリストをつかわされたという事です。その「善き知らせ」(福音という言葉を平たく訳しなおせばこうなります)を受け入れて、キリストを信じる者は、キリストの死に合わせられて古き我に死に、キリストの復活に合わせられて新しき永遠の生命に生きるという事です。(ローマ人への手紙六・3~11)
(1975.10.26「集会だより」より)
 
 
更に大いなる福音
 
 キリストの福音は、前節までに述べたような「死と新生」にとどまりません。
「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ二八20)
「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒一・5、8)
 などと聖書にあるように、キリストが常に共にいまし給うこと、聖霊による能力の賦与等、福音は私どもの人生を一変せしめる大革命路線なのであります。
(1975.10.26「集会だより」より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2014-06-06 15:11 | 日岡だより
<< No.647 神の国を求めよ ... No.645 「勿体ない」  ... >>