No.642 主を迎え入れよ(信仰の段階) 2014.5.4

主を迎え入れよ
         (信仰の段階)
 《先週の聖書講義》(一九七五・九・一四))

 聖書は神の言葉です。この神の御言葉に従って、神の人間救済の道を学びましょう。
 人が救われるのは、信仰によるのみです。信仰とは行きづまった私たちの生活、破綻した私たちの人間性の解決者として、私たちの内奥にイエス様に内住して頂くことであります。一定の信条とか、主義や哲学を信奉することではありません。
 私どもは、私どもの根底的な人間性において、又道徳や愛情、信頼、経済等あらゆる面において行きづまっています。その破綻の真の原因は罪である、つまり神へのそむきであると、聖書は告げています。
 「人間は神から造られているので、神に帰るまでは平安を得ない」と聖アウグスチヌスは言いました。聖書によると、人間が神に造られた時、神によって命の息を吹き入れられ、そこで生ける者になったとあります(創二・7)。命の息とは、人間の最奥にある霊(息と霊はヘブル語やギリシャ語では同一の言葉)をさしています。そこは、神との交わりの座でありますし、神の霊をうける処であります。(後述の図を参照)この霊の部分が人間の罪の結果損われ、活動を全く停止し、全く死んだ状態になっています(ローマ六・23)。
 この「罪過と罪の中に死んだもの」(エペソ二・1)になっている人間に対してその罪過を洗い清め(ヘブル一〇・22)、新しい生命を与え(ヨハネ三・16)、永遠の生命(ローマ六・23)、生命を豊かに与える(ヨハネ一〇・10)のは、神の豊かな御計画であります。只、一方的な無代価の御恩恵であります。
 神は義なる御方であり、又愛にとみ給う方であります。義は罪をにくみ、愛は罪をかばいます。この義と愛の相剋を埋めるのが十字架であります。
 ここに正しき人がいるとします。その人の子供が罪をおかすとします。その正しき人は、まずその罪をおかした子どもに対し、警察に自首することをすすめ、そして受けるべき刑罰をうけ、本当に悔改めて更生する事をすすめるでしょう。もしその子が承知しなければ首に縄をつけてでも警察に連れて行くでしょう。そして正当の報いを受け、罰金を払うべきならば、その父親が代って払ってやることでしょう。もしその子がまことに改心し、謙虚な心で刑務所に行き、あるいは死刑の宣告でもうけるならば、その父親は涙の中にも大いに喜び、出来る事なら、その子にかわって刑務所に行き、その子に代って死刑台に上りたいことでしょう。ここに、この父親の正義と愛の矛盾の相剋とその融合が見られます。ここにみられる「できる事なら……、身代りしてでも罪の罰をうけたい」という父親の願いが、イエス・キリスト様の十字架の死にあらわれているのであります。それが神の義と愛の矛盾の解決です(ローマ五・8、ヘブル書二・10、ヘブル書九・22)。
 私たちは、このイエス・キリスト様のあがない行(ぎょう)の故に、罪あるものが罪なしと認められ、たとい自分の目には悪性の人間と見えようとも神の目には聖なるものと見えるという洗い清めの神業が働くのです。これが「義認」です。キリスト教の信仰の第一歩はこの義認です。
 ところで、信仰の入門は、神を知り、おのが罪を知り、神に帰る決意をする時点にあります。この時点における神を知り、おのが罪を知り、神に帰る決意をするというのは、実は、d0065232_20241863.jpg人間の断面図では浅い処でやっているのです。Bの心で、しかもそのごく表面に近い浅い処で知り、決意しているのが普通です。本当に神を知り、おのが罪を悟るのはCの霊が開かれてからのことです。普通、教会では、この時期に早くも洗礼をさずけてしまうので、あとの指導がよくないと、ものにならぬまま教会を去ってしまう信仰流産児ができるのであります。
 通常このあとに(ある人は以上の入門期をとびこえて)、神様からの直接干渉があります。重大な転機です。ある人には「ハッ」と気がつく程度、ある人には百万ボルトの電圧がかかったような衝撃がきます。要するに、中心の霊(C)が息をふきかえすのです。創世記にある神より頂いて、そして罪の結果失っていた霊(息)が生きかえるのです。これを、新生というのです(ヨハネ三・3、ヨハネ三・16)。ヨハネ二〇・23で復活のイエスが弟子たちに「聖霊をうけよ」といって息をふきかけています。こうして、一度死んでいた罪の子は霊に生きかえるのです。これを私どもは「回心」と呼びます。この時、全くこの身を神に委ねている実感、神にうけ入れられている信頼感、義と認められたという平安―――そういった信仰に入るのです。
 信仰の成長ということから説明すれば、右の信仰の第一歩をふみだす時より、聖化がはじまります。「新生→聖化」という図式になります。聖化は漸進的でもありますが、又時に滝をとびこえ、せきをのりこえるように御聖霊の働きによって見事に伸びる時期があります。これを一部の人々は「聖潔」と呼びます。言葉の論理からいうと、これ以後は全く罪をおかさぬ聖人天使級の人になりそうですが、実はそうもいきません。しかし、一種言うに云われぬ倫理的自由感をもち得ます。
 こういうふうにして進歩成長しておる中に早く、あるいはおそく、人によってちがいますが、倫理的自由感というよりも、人間存在そのものとしての自由感、キリストとの一致感を得る時があります。これは信仰第一歩の「回心」に似て、全く神様よりの一方的干渉の下で、ある変化が私どもの霊におこります。
 それは、私どもの霊が生きておるのみでなく、全く主に支配されているという実感であります。たとえて言えば、これまで家を売って新しい家の所有者に法務局の台帳は名換されていた。毎月家賃を払ってはいたけれど、この家主に家の中に入ってもらった事はない。家がこわれれば修繕してくれ、何かと親切に気をつかってくれる家主であるが、家主であるならこの位の親切は当り前であると思っていた、これが新生している人間とイエスの関係です。しかし、第二の体験(私はこれを聖霊のバプテスマと呼びます)は、この家主に家を明けわたして、この家に入って頂き、私は彼の支配下に入るという事です。こわいこわいと思っていた家主はこはいかに、実際に入って頂けば本当の父親以上で、私は全く手厚い保護下にある子供のように自由快活でいられる、これが真のクリスト者の自由です。家の中に栄光と祝福が満ちます。
 このような、すばらしい恵みを求めて、私どもは何を為すべきでしょうか。ただ彼を我が内に迎え入れるのみであります(ヨハネ三・20)。ですから、こう祈りなさい。誠実な決意をもって。
 「主よ、私の内に入って下さい。私の王座におすわり下さい。永遠に私の内にお住い下さい。」
 そしてこの祈りをすましたら、この祈りが我が内に実現していると、信じて即刻只今「主は生く」と念じて主の足あとに従う如く生きて下さい。その時、あなたの内に、主の生ける水が、あなたの中なるかわいた川々に、みち溢れ流れはじめるのであります。
(1975.9.21「集会だより」より)
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by hioka-wahaha | 2014-05-08 20:16 | 日岡だより
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