No.641 喜びおどれ 2014.4.27

喜びおどれ
 【先週の聖書講義】(一九七五・九・七)

◇この日の礼拝は、讃美歌七番のあと、すぐ献金。――そこで献金についての学び。マラキ書三・10。ルカ二一・4。ローマ一二・1。そしてヘブル一三・15。礼拝は、まず「ささげる」事にはじまる。与えられることのみを願って礼拝に出ても、得る処は少い。
◇この日のみことば
 マタイ五・10~13、Ⅰコリント一・10~二・5、Ⅱコリント一・9、10、ガラテヤ二・19~三・3
◇南洋の孤島でハンセン氏病者たちの為に殉じたダミエン。ああいう人々の聖なる生涯。それはおのが生命を消費して燃えさかり、燃えつきた勇ましい人生である。
◇大統領暗殺未遂、あるいは神奈川や東宮御所の爆破事件等の犯人たちの激しい生きざまにまなべ。御言葉の弾丸をもって要人をおそえ。要所要所に御霊の爆弾を装置せよ。ぼくらは福音ゲバルト、福音ゲリラたれ。
◇義のため、主のために責められる人は、喜びおどれ。かくイエスが仰せられる時、そのように義のため主のために責められる弟子らには即座に(責められるそれ自体の中に)喜び喜ぶ報いがある事を示している。ここでいう報いとは、遠い将来に与えられる退職金や報賞金でなく、日々支払われる日当式賃金の意味がつよい。
◇キリスト者の生は、この世では十字架の生である。宮本武蔵がほめたという細川家のある家来のごとく、つねに死の座にすわっている体の生である。
◇パウロはエペソ伝道で、心の中で死を覚悟し、自分をたのみとせず、神をのみたのみとするに至った。これはコリント伝道の初期に十字架のキリストのみを思いつづけたというのと同じ心境であろう。
◇パウロが苦しく恐れ戦ったコリント伝道初期において、キリストの十字架のみを思ったのは、起死回生のキリストの生命を信じたのであるし、又、彼自身キリストの十字架に投げ身して死ぬ覚悟でいたという事でもある。
◇パウロは伝道にあたり(特に初心の人々に対する時)十字架のキリスト以外は語らなかったという。智恵の言葉を用いず十字架の言葉を用いたという。「十字架の言葉」という時、二つないし三つの意味が重なっているように思う。
◇それは十字架についての言葉であるが、又十字架されたる言葉でもある。神の言(キリスト)は、人間言語としての福音の中に埋没され、且つ人の思いにより十字架され、無力にされている。神の霊火によってあがないだされるまでは、全くかくされている。
◇この言葉を智恵をもって語っても人には愚かなものとして到底受け入れられない。しかし、思いがけぬ時に、思いがけぬ人に、神によって人の心にサク烈する。ゆえに、われわれは「宣教の愚」というラディカルな福音の時限爆弾の犯行(?)に帰るのである。
◇キリストの十字架には、ある同時性、即一性がある。二千年前のキリストの十字架は、現在の私の十字架であり、私の死である。又、私が主を信じて「自分の」十字架を負う時、それはキリストの十字架であって、私を「救う」。
◇キリストこそ私の死の燭台である。私の光の燭台である。私のイノチを消耗し、燃焼し、燃えさかり、まことに喜びおどるごとく燃えさかって主の栄光を謳歌する、それが、主にあがなわれたものの生ではないか。
◇札幌オリンピックで活躍したジャネット・リンさんの「愛と平和を」というよい本が出ています。若い人達のために是非買ってあげて下さい。あの全世界の見守る中で、彼女が突然リンク上に転倒して尻もちついた。しかし彼女は実に平安の中にニコリとして立ち上がってすべりつづけた。彼女はあの転倒のおかげで成績は三等になってしまったけれど、人気は第一位。そして多分創造的芸術性という点では誰しも第一位であると認めた事であろう。人の栄誉と神の栄誉とはことなるという事をこれ程示した事件もない。正しく失敗と栄誉失墜の中に、真の勝利と喜びはあるのである。
    (1975.9.14「集会だより」より)
※1975.9.14~10.26の間、「集会だより」というタイトルの週報が発行されています。
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by hioka-wahaha | 2014-04-30 23:33 | 日岡だより
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