No.640 只恩寵 (3) ―― 七五夏 別府聖会の記 ―― 2014.4.20

只恩寵 (3)
  ―― 七五夏 別府聖会の記 ――

 こうなると、説教者の“説教”という言語活動はすべて、ほとんど無価値でして、その背後に働く、神の力のみが活躍いたします。会衆の一人一人が、魂ひらかれ、心境を突破し、新しいことを教えられるのはすべてあの喧騒な祈祷の時、神とのプライベイトな交わりの中で与えられるのであります。
 祈れない、祈れないと苦しんでいた人が、四十分祈り通してもまだ祈り足らないのでした。涙を滂沱と流して祈るさまは実に神々しい程です。気の弱い婦人が明るくたのしい声に大変化して、いかに自然の風光がきれいに目に写りはじめたかを語ってくれました。信仰の弱さをなげいていた人が、その弱さのままで主を信じることの秘訣をつかみました。二人の女声の霊唱は特にきれいでしたが、残念ながらマイクの関係でテープには余りよく入っていません。(しかし、このたびの聖会ではすべての人が、喉を笛のごとく、ラッパのごとくなして自由放唱する喜びを体験された事と信じます。これにコトバが加わり、“霊吟”するようにこれより進歩されることでしょう。)
 私はかねがね、ビリー・グラハム流の決断信仰をきらうものですから、二女のせつこは大変困っていまして、伝道集会などで音楽の伴奏でもあっておごそかに又うましく招きの声がよせられると思わず立って恵みの座に進み出たい。私もそばからちょっとでも肩をつつけば、ツッーと前に出て行くだろうと思いつつも、そういう人為的入信経路を排して、何とかして主ご自身のご手配による回心を待っていたのでした。本人にしてみれば、「人間の決断じゃダメだ。神さまの促しを待っていろ」と言われた処で、一生待っても与えられるかどうか分らぬ、「恩寵待機の信仰」はじりじりいらいらする訳のわからぬ目標でしょうね。実はここの処、人間の決断と神の恩寵が一つとなる処に秘密があるので、人間の決断は全く不要というのも言い過ぎです。この辺のこと、「信仰を得る為、何かせねばならぬのか、あるいは何もせぬでもいいのかと迷ってきたが、そんな迷いはどうでもよくなった。ただイエス様に委ねるという気持になった」とせつこは言っています。そして十七日の礼拝の時、泣いても泣いてもとまらぬ「聖なる感動」をうけるわけです。(イグナチウス・ロヨラの日記によく「祈って涙す」とありますが、ロヨラはこの嬉し涙にも悲しい涙にもあらず、聖なる涙にしばしば泣いたらしくあります。)
 私自身も、全く不調と弱さのどん底で、主にのみより頼んで、人間の力によらず、主の臨在によって栄光を拝すという、“只恩寵”という秘儀を学ばせられたことでした。(一九七五・八・二〇)
                                                  釘 宮
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by hioka-wahaha | 2014-04-23 23:13 | 日岡だより
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