No.199 笑いの力 2005.10.23

笑いの力

 最近は「笑いの力」を称賛する本や新聞雑誌の記事は多くなって、ほとんど理屈としては皆さんに理解されてきました。「笑えば病気が治る」ということは私の専売特許ではなく、昔から言われてきたことです。特に生長の家の谷口先生はよくこれを説かれたと覚えています。医学的にこのことを言い始めたのはアメリカのノーマン・カズンズでした。
 ところで私が「笑いの力」を説く際の特徴は「自分の意志で、何の刺激も無くてよい、そのまま笑いなさい」という点だろうと思います。その笑いを始めるのに、少々指導する人がいるのです。
 そこで、私は自分で大仰に笑って見せ、そして「さあ、笑いの練習をしましょう。いや、訓練ですよ」と言うのはそのことです。
 前橋市で医院を開いておられる富沢隆医師からファックスが入ったばかりなのですが、「最近は笑いの小冊子の説明をするので、診察時間がいそがしくなりましたが、実行される方は素晴らしい効果をあげています。特に糖尿病の方はヘモグロビンA1Cという指標を使うので効果が覿面に分かります。正常値になった方が既に六人出ました。」とありました。この方が時間をかけて一人一人私の小冊子を使って説明なさっている姿は尊いです。また、その誠実と熱心さにはほとほと敬服しています。
 なお「ワッハッハハ元気が出る電話」は実際に一緒に笑えるように、ワッハッハハと私が笑ってみせている電話の番組です(097-551-4154)。どうぞ電話で一度聞いて下さい。昨日もある方からこの電話を聞いて、大きな声で笑えるようになりましたと、嬉しい手紙が来たばかりです。《く》
 

神癒の信仰についてQ&A
 
Q.病気を癒していただくのに、キリスト教の信仰を持っていないと駄目でしょうか。
A.ハハハハハ、お答えしにくい問題です。でも、実際には信仰を持っていないのに癒された例が沢山あります。しかし、信仰が無くても癒されますとは、私の立場としては申し上げにくいのですね。でも信仰が無くても、どうぞ私どものお祈りを、ご遠慮なく受けてください。
Q.私は先生にお祈りをして頂きながら、お医者にも行き、お薬も飲んでいます。こんなことで良いのでしょうか。
A.これも又、お答えしにくいですねぇ、ハハハハハ。お医者やお薬に頼らず、信仰一本で神様のお癒しを期待することは、本当に良い信仰です。神様は必ず、その方の熱心さ、誠実さを喜んでくださるでしょう。ですけれど、私はそのような強い信仰の態度を皆さんに強要するのは少々酷だと思って、全般的にはお勧めしないでいます。
Q.は、はぁ……?

A.私自身、30歳代には徹底して神様によるお癒しを信じ、医師の治療も薬の助けも拒絶しました。風邪をひいてもアスピリン一服のまず、指に小さな怪我をしてもメンソレータム一つ塗りませんでした。妻や子どもの病気(時には猩紅熱や、病名不明の奇病にもかかりました)や負傷や火傷などにも同じように対処しました。それこそ、軽い風邪といえども肺炎になる恐れはありますし、小さな怪我でもバイ菌がはいるとどんなことになるかわかりません。決死の覚悟だったのです。
 神癒を標榜なさる牧師先生など日本にはまだ、ほとんど居られない時代でしたから、私自身の意志を強めるためにも、それほど頑固な覚悟が必要だったのだとも言えましょうね。神癒伝道開拓時代の私には必要な道程だったでしょう。
 しかし今の皆さんに、そのような重荷を負わせたくはないのです。死を覚悟のラジカルな神癒信仰は私ひとりで終わりにしてくださいと、ある時、神様にお願いしたのです。
 もともと神様は、弱い信仰の私たちのために医師やお薬を造って下さったのです。ですから、神様に感謝しつつ、医師やお薬によって癒しを期待することは神様もお許し下さると信じています。
 しかし、神様を信じて絶対に医師にも薬にも頼らないという人が居られるなら、そういう人を神様は更に喜ばれるであろうことは論を待ちません。

Q.神癒のお祈りで、100%癒されますか。
A.「はい、みんな癒されますよ」、と申し上げたいところですが、そうは申せません。残念ですが、癒されない方もいます。目の前で即座に癒されるかたが3、40%くらいでしょうか。帰ってから翌日、あるいは、もっと時間をかけて除々に癒される方が、20%くらいでしょう。(なぜ、ある人が癒され、ある人が癒されないのか、私にもわかりません。天国に帰ったら、私もイエス様にお聞きしたいです)。
Q.その癒された人たちは、さぞ信仰が厚いからなのでしょうね。
A.いや、それが不思議で、案外信仰の浅い、疑い深い人が癒されたりします。すぐに癒されるか、癒されないかは、これは神様のご自由な権限の下にあるのでしょうね。
 ただ一つ申し上げたいことは、癒しを求める方は、あきらめないで最後まで忍耐して癒しの完成を待ってほしいのです。実際、完全に癒されなくても、少しずつ病状が快方に向かう方が多いのですから。私は「忍待」と言っていますが、忍耐して、あきらめないで、待ちつづけてください。
 その過程で信仰ということも分かって来るものです。そのために神様は完全な癒しを先に延ばされるのかもしれません。いや、そうに違いないと私は信じているのです。
 つまり、どんなに「癒しの達成」が遅れようと最後まで忍耐して待ち望む人は、最後には必ず完全に癒されますよ。

Q.もっと、強い信仰を持てればよいのにと思いますが、どうも信仰をしっかり持てません。
A.いやあ、みな、そうですよ。私だって、自分の事になるとなかなか信仰を持てません。
Q.先生でもそうですか。
A.はい、そうです。僕は特にだめです。人様に祈って差し上げて、その方の病気が癒されることについては、あつかましいほど自信を持っています。たとえば、祈って差し上げて、目の前で、一向に治らないときでも、私は平気です。いつか必ず治ると思っています。私は元来、気の小さい男です。ちょっとの失敗も恥ずかしくて人の前に立っておれません。しかし、癒しの祈りに就いてだけは別です。私は神様から特別に癒しの賜物をいただいていると信じているのです。
 私たちはだれでも御飯を食べたら、それは当然胃や腸に行って、そこで消化されるものと思っているでしょ。そのくらい、当然のこととして人様のために祈る時、その方の病気が癒されることを信じているのです。しかし、自分の病気が治るとは、どうも自信が持てません。
Q.驚きました。
A.あの天下の神癒伝道者だったM先生だって、ひどい痔で困っていたそうです。人を救って自分を救えない、皮肉じゃなくて、そういう事はあるのです。
Q.先生がたは、みんなそのような経験をお持ちなんですね。
A.そうでしょうねぇ。自分が経験して皆さんのご苦労も分かるのですよ。ともあれ、M先生はその痔も最後には完全に癒されます、ハハハハハ。さて、私の経験をお話ししましょう。
 実は私は長い間、ギックリ腰で苦しみました。朝、起きるとき、ベッドから蟹が這い出るように横這いで降りてきて、腰に手をあてて、ギャッと悲鳴をあげて腰を伸ばしたものです。それから一日中、腰を曲げることができません。いつも腰を伸ばしたまま一日を過ごしていました。ところが、
 10年ほど前のことでした、ハワイで聖会があって、私も参加しました。その時、講師のカニストレイシーという牧師さんが、説教の中で宣言したのです。「皆さんの中で腰の痛い人が癒されました」。そういう癒しの宣言で会集席の中の人が癒されるというようなことが、世界で始まったころでしたね。
 その時、私は思ったものです。「ああ、例によって癒しの宣言か。よくこれで人々は癒されたものだが、今日は誰がいやされるのかな。うらやましいなあ。僕はこの宣言で癒されたことは一度もないんだ」と心の中でつぶやいていたのです。
 やがて、集会が終わって、私は妻と共にホテルの部屋に帰り、痛い腰をいたわりながらベッドに横になりました。ところがそこで、その腰の痛みが突然に飛び去ってしまうということが起ったのです。このお話は又の機会に譲りましょう。            (旧号再掲載1997.2.14.記 《く》)

〔あとがき〕
去る9月30日に大阪高裁で「総理大臣の靖国神社参拝は違憲である」という傍論(判決に付記する判事の意見)が出ました。政教分離の憲法論理から言えば正論でしょうから、良い意見かもしれないが、私は日本人の原意識から言えば問題があるみたいなことを言って顰蹙(ひんしゅく)を買いました。▼たしかにクリスチャンであり牧師である私の言葉として可笑しかったでしょうが、この違憲指摘は日本人の潜在的総意識には合わないな、という私の懸念でした。▼問題は日本の現憲法があまりに理想主義的で、空想的であることにあります。政教分離の原則に従って、総理大臣はともかく、天皇が靖国神社や伊勢神宮に参拝し、また全国の護国神社に幣帛料をおくるなど、これを違憲と言えば国民感情としては受入れにくいことでしょう。▼現憲法を杓子定規に適用するところに無理があるのです。一番の欠陥は平和前文です。「我らは世界の諸国の良識と善意に信頼して如何なる戦争の用意も持たない」というようなことを書いてあるけれども、これは噴飯物です。▼本当は占領国アメリカを信頼しての無責任な言葉です。だから一旦朝鮮戦争が始まるとマッカーサーにせつかれて自衛隊を作った。これは大きな詐欺です。日本の憲法は以後、詐欺憲法になってしまった。▼人間諸国の善意や良識など、どうして信頼できましょうか。本当は「神の御心と全能の力を信じて日本国は絶対無軍備を持たない」と憲法前文を改正したいと私は言いたいのです。《く》

〔御礼〕
この19、20日の両日、宮崎福音教会の伝道会に招かれ、ご奉仕して参りました。高森先生はじめ信徒の皆さんから大いに歓待され、またご祷援いただき感謝でした。でも、講師の務めはやっと果たせた感じで、ふつつかな点を心からお詫びしたい思いで一杯です。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-10-23 00:00 | 日岡だより
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