No.198 第一次産業者に福音を 2005.10.16

第一次産業者に福音を

 リバイバル新聞の10月9日号5面に「第一次産業とトランスフォーメーション」という論文が出ていました。石松正美さんとおっしゃる方の所見です。多分、牧師先生と思いますが、私の知らない方です。
 それはともかく、あまりこれまで聞かなかったご意見ですので驚きました。第一次産業とは農業や漁業です。特に私たちには、田圃や畑で働くお百姓さんの姿を脳裏に浮べます。それから林業もあります。こうした第一次産業は、神の「祝福と呪い」の原則に密着する産業である、と言って申命記第二八章を指摘されています。詳しくはリバイバル新聞10月9日号をご覧ください。
 最近、時おり、JRで旅をしますが、田舎の淋しい場所に小さな古びた社(やしろ)を見ることがあります。貧乏な神社で、やっと持ちこたえている感じですが、しかし倒れないで昔から続いている様子、部落の人々の心の寄り所なのでしょうか。土に息づいている庶民の土俗信仰が伺えます。
 いや、土俗信仰などと嗤っておれない、太古の昔から続く日本民族の精神構造にある地下水のような根深い庶民信仰を感じます。いわば日本人の根底にある古来神道の流れでしょうか。息の長い地縛霊の支配を感じます。大地に滲みついて、先祖代々の村人に影響を与えてきた悪霊どもに違いないです。
 こいつらに戦いをいどんで勝利する農村伝道をしたいものです。西洋からはいってきた明治以降の文化的伝道は、これに対して甘かったのだと思います。そんなことを考えていた時、この石松先生の「農村の祝福がトランスフォーメーションの基礎である」とのご意見に接して、膝を叩いたことです。《く》


信仰の第一歩

 今回、10月19日と20日にかけて信徒セミナーを開きました。セミナー(勉強会)とは言っても聖会のような感じです。しかしやはり、信仰の成長過程を、私なりの経験を加えて、相当教室風に綿密に語ったつもりです。その結果は、私の自己評価ではまだまだ不満でして、参加者の皆さんには申し訳ないと思いました。
 でも、皆さんはそれぞれ喜んでくれ、「今回のセミナーは恵まれました。今後は春、秋と年に2回してください」というような嬉しい報告も聞きました。
 さて、この信徒セミナーで私のお話した内容の概略を、かなり自由に編集しなおして以下に書かせて頂きました。テープも作りましたが、テープとはだいぶ違ったものになろうかと思いますが、お許しください。テープはテープでそれなりの味があろうかと思いますので、お聞き下さい。
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 第1セッション19日の主日礼拝の説教で代用です。初期の信仰がどのようにして始まるかということと、初期の信仰でも時に強力な表現を呈することがある、その秘密と言ったことを話したつもりです。初期の信仰とは私の経験としては明確な回心です。よく、書いたり話したりしますが、私の回心は昭和19年11月23日、太平洋戦争のまっ只中、福岡の刑務所の厳正独居の中での回心でした。
 厳正独居というのは、昔は禁固という刑がありました。その禁固の人が受ける厳密な独居刑です。一日中、3畳敷くらいの部屋で座ったきりですから、たいていの人は重労働の服役よりも辛いでしょう。しかし、私には快適でした。
 食べ物も上げ膳、下げ膳。お風呂は粗末といえども一人専用、熱湯と水が自分の思うままにハンドル一つで出てくるのですから、当時の日本の世相のなかでは恵まれた(?)環境です。第一刑務所は清潔でしてね、ノミもシラミも出ません。警察の留置場は、それと全く反対です。ですから、留置場に居る人は虚偽の自白をしてでも早く刑務所に行きたかったほどです。起訴されて刑務所に行く同室の奴らには「良かったなあ」と祝ったものです。
 私は初めは普通の雑居房(囚人が7、8名一緒に居る)に入れられました。労役は一般工場のなかでも、ごく新人むきの軽い仕事、麻布を袋の形に縫い上げる作業でした。行嚢(こうのう)と言って、軍用飛行機で運んで行って、前線の友軍に必要物資をパラシュートで落す時に使う、その入れ物なのです。
 私は戦争に絶対反対でした。それから起る徴兵忌避事件を中心に起訴されて(くわしいことは又いつか書きます)、最終の落ち着いた場所が戦争用の軍事物資を作る作業ですから、その矛盾に苦しみました。
 さて、私のような者は一般工場で一般囚人と一緒に就役するのは良くないと戒護課長さんが判断したらしい、私は福岡の刑務所に入ってから3か月目に独居房に移されたのでした。
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 独居房の生活は、決して楽ではありません。先に「快適だ」と書きましたが、多少強がりですよ、淋しいのは当然です。私は家に残してきたただ一人の母を想って泣きました。とは言え、これはかねてから望んでいた隠遁生活の一つではないか、プロテスタントには修道院が無いから、刑務所でも入ってみたいなあと思っていましたから、その願いがかなったわけです。
 ただ困るのは、聖書が手もとにないことでした。刑務所で月に2冊の図書借入れが出来ます。囚人たちは図書カードをめくって2冊選び出し、囚人図書係に頼んでおきさえすれば、各監房に入れてくれるのです。
 ところが私が聖書を申込みますと、戒護課長の許可が下りない。キリスト教の教えで反戦主義者になった奴に、どうして聖書なんか貸出しできるかということでしょう。しかし、私は懲りずに何べんも聖書を申込みました。すると、ただ一度だけ囚人の図書係がウインクして聖書を回してくれました。私はその聖書をむさぼり読んだです。
 独居房というところでは、囚人を退屈させて困らせる所ですから、仕事は無いことはないけれども、仕事の量は少ないのです。私の仕事は海軍専用の封筒貼りでしたが、片目で聖書を拾い読みしつつ、その仕事をこなす余裕がありました。この時ほど、聖書を読んだことはないでしょうね。聖書をうんと読みたい人は刑務所の独居房に入れて貰うとよいですよと、冗談を言うくらいです。
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 ちょっと触れましたが、戦争に反対して、ついに刑務所に行くのですから、戦時下のことです、評判の軍隊以上の過酷な重労働やリンチめいた制裁や暴行を受けるだろうということは覚悟していました。ところが、案外刑務所という所は平穏なんです。私はホッとしましたが、困ったのは軍事物資を作らせられたことです。
 軍事物資など大仰なことを言うようですが、あの行嚢と言い、独居房での封筒貼りと言い、みな軍用のもの。私はうつむいて考えましたね。「ここまで来て、なんで軍用なのか」と。
 それどころか、一人独居房に居ると、もやもやと心に湧き起る雑念に悩まされ始めました。雑念というより妄想です。こんなにまで、つまらない思いや、悪念や、狂わしい思いが宿っているものかと、自分の潜在意識の汚いこと、みじめなこと、恥ずかしいことに、びっくりしました。
 そして自分は如何に汚れた人間か、神様に遠く離れた罪人か、学んでいた聖書の罪指摘の言葉に圧倒されはじめたのです。こんな自分は死ぬほかはないと、仏教風や精神修養の書にある「自分に死ね」という言葉に私は付きまとわれました。
 ところがその時、私はふと聖書の言葉を思い出しました。「キリストを信じる信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16節参照)。実は、この聖書の言葉で私は塗炭の苦しみに会うのです。この言葉は多くの人にとっては救いの一句ですが、私にとっては裁きの一句になりました。この聖書の意味は理屈としては分かるのですが、私の罪を無条件に赦してくださるという都合の良い言葉にうなずけない、実感として承知できないのです。ついに「私はイエス様を信じていない。信じられません」と心の中で叫んでしまったのです。
 その瞬間、私の魂は地獄の炎のなかに転び落ちてゆく、その姿をまざまざと見ました。これは深刻な地獄体験でして、この闇の体験を3日間するのです。3日目、昭和19年11月23日です。
 当時は新嘗祭(にいなめさい)という祭日です。朝から祭日にふさわしい刑務所なりの御馳走が出てきますが、私は食べません。無理に断食するのではないのですが、食べる気力がないのです。そして夕刻の一瞬、私は心に声ならぬ声を聞いたのです。
 「一人すべての人に代わりて死にたれば、凡ての人すでに死に
  たるなり」(コリント人への第二の手紙、文語訳)
 このみ言葉が声無き落雷のように私の心に響きました。私は一挙に悟りました。
 「私は救われた! 私は神の子になった。バンザイ!」
 福岡の刑務所の中庭の桑の木にすずめが鳴き声をあげて帰ってくる夕刻でした。もしそばに時計があったならば、この時刻も私ははっきり覚えることができたのに、と悔やまれます。
 石原兵永先生の「回心記」(新教出版社版)の101頁に、私のこの経験と全く同じ経験が書かれています。これは案外、珍しい経験らしいのです。自分の救いの一瞬、それを知っている人は少ないと聞いて、後に私はびっくりしました。
 聖書のお言葉を2つ3つ、そして「イエス様を信じましょう」と勧められて、簡単にイエス様を信じてクリスチャンになってしまった恵まれた人が、案外多いことも知って私は驚いたものです。
 標題にした「信仰の第一歩」ですが、実はいろいろあると言ってよいのです。まとめて言えばイエス様との出会いです。最初の12弟子たちは、イエス様に出会って「私に従って来なさい」というお言葉に単純に従い、短時日の間に「福音を宣べ、悪霊を追い出し、病気を癒す」ことさえ出来る使徒たちに変わりました。
 そこには私たちとは又、タイプの違う回心があったように思えます。この問題についても又、次回から述べたいと考えています。《く》

〔付記〕
今回のセミナーの各回のテープを作りました。(但し第4回の分は録音出来ませんでしたが)。ご希望の方にお頒けします。第1回「神の命を体現せよ」(エペソ5:1)、第2回「絶望より奇しき平和へ」(ローマ7:14~25)、第3回「神と出会え」(士師記6:1~14)、第5回a「聖潔は神の動的義化の結果」(ローマ20:28)」、第5回b「実技的祈祷法etc.」(第一コリント12:1~11)《く》
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by hioka-wahaha | 2005-10-16 00:00 | 日岡だより
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