No.638 只恩寵(1)―― 七五夏 別府聖会の記 ―― 2014.4.6

只恩寵(1)
  ―― 七五夏 別府聖会の記 ――
 
 「主は恵みふかく
  そのいつくしみはとこしえに絶える
  ことがない。」(歴代志下七・三)
 
 ソロモンの神殿に、主の栄光が下ったとき、イスラエルの人々はみな地にひれ伏して拝し、右のように主に感謝したのであります。このたびの、<一九七五年夏季別府聖会>についても、往時のソロモンやイスラエルの人々に負けず劣らず、主に感謝し且つその御名を讃美したく存じます。
 聖会は八月十四、十五の両日を利用しました。お盆のさなかでありますから、家庭の事情で参加できない方も多く、少ない人数はいやが上にも少なくなっていくわけです。これは押し迫って、急に計画を打ち出した私にも責任があります。しかし、このプランを私の胸中に示された<元おこし>は神様でありますから、私は最初から安んじていました。けれども、サタンは巧妙です。この私の平安をうち崩そうと、やっきとなって働くのでした。この聖会のもよおされる週、つまり月曜日の十一日から、一切の雑事を放棄し、断食祈祷して準備にあたる予定でした。処が、当日になってみると、実にイヤになるほど俗用が降ったり湧いたりして十三日の午前中まで心身ともに落ちつけませんでした。そして、やっと集会室にとじこもって準備にとりかかろうとしたトタン、頭痛と悪寒におそわれました。夕食も食べる気分せず、とうとう夜もウトウトしたまま、何も出来ずにすごしました。明けて十四日は、聖会当日です。会場に出発しようと思って、下着をきかえようとする時、下半身の股のあたりに腫物のできているのが分りました。すっかり膿んでいて、淋巴腺も痛みます。悪寒の元兇はこれだったかもしれません。
 会場に来て、いざとなってみると、いかにも人数の少ないのだということが、実感をもって迫ってきました。しかも、非常に霊的空気の密度が稀薄で、これはどうなる事かと心配しました。
 出席は、吉田兄、中野兄、原兄、釘宮(え)兄(14日夕より)、木南姉、釘宮(ト)姉(15日午前より)、石橋姉(15日午前)、中野(高)姉、原姉(14日午後)、阿部姉、川上姉(14日夕より)、釘宮(せ)姉。
 第一日目は、開会説教、感話、さんび(唱)、夜は七時より十一時まで四時間ぶっ通しでしたから、みんなグロッキーだったようです。その頃になると、私はもうすっかり体調は回復していました。
 第二日、早天祈祷会は、私のメッセージが長すぎて、祈祷会にならぬまま、朝食。九時より<口と体でする讃美礼拝>―――分かりやすく言えば、歌と踊りでする祈りという事になろうか。しかも、その歌と踊りは全くの内発的自由表現なのです。喉を一個のラッパか笛の如くなして自在に神をさんびする霊唱に殆ど全員がとけ込めていたようです。その後、<くつろぎ心法>の練習。つづいて、終戦記念日の為の説教、アモス書による内村鑑三風愛国説教(!)です。(つづく)
 
 日岡だよりNo.459(2010.10.24)からNo.473(2011.1.30)まで、「過去の週報より」という連載で、1971年から1975年にかけての文章を載せました。その後、戦前より始まりいろいろな時代の小冊子形式の文章を順不同で掲載してきました。
 実は、週報のような定期的な発行物は1972年頃に途切れていて、その後「大分通信」や「神の息よ吹け」などの不定期な冊子が出されていました。
 1975年の夏の別府聖会を境に、「週報」が再開され、後の「キリストの福音」に近くなります。
 「日岡だより」では、まず、1975年「別府聖会の記」を掲載したあと、「過去の週報より」の連載に戻ることにし、1975年より時系列にしたがって釘宮義人牧師の文章を掲載していきます。(S)

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by hioka-wahaha | 2014-04-09 21:57 | 日岡だより
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